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オーストラリアに 「慰安婦像」が建つとは 思っていない、 「日本の右翼思想」の脆弱さ。  

 「日本は素敵な国だ。」 と思っていた世界の人々が、「日本人は レイプ魔の子孫だ。」 と思うまで、 日本人は 「慰安婦問題」を 取り上げるのだろうか。 旧日本軍人の証言以外、誰が話しても、『捏造』『偽造』のオンパレードである。 今度は 慰安婦像が オーストラリアに建つかもしれない のだそうだ。 それも 良いかもしれない。 少しは頭を冷やして、 冷静に 『戦略』を練り、 自分の主張をどう伝えたらよいのかを 考えるべきだったと、 反省する材料になるだろう。 それまでに 何カ国に 「慰安婦像」が建つかの問題だが …

                                                  朝鮮日報日本語版  2014/03/14
 オハーンさんは謝罪どころか慰安婦の存在さえ否定する最近の日本政府の態度を見て、慰安婦像設置に協力することを決心した。 オーストラリア在住の韓国系・中国系団体が先月、慰安婦像の設置を決めた。慰安婦像が設置された米国の小都市グレンデールとは 違い、シドニーは人口500万人というオーストラリア第1の都市だ。

 シドニー・ストラスフィールド市のオク・サンドゥ副市長は「日本の 度重なる歴史歪曲(わいきょく)に対抗し、オーストラリアの与党・自由党女性委員会も慰安婦像設置を支援する意向を明らかにした」 と語った。

 シドニーの慰安婦像は韓国人、中国人、そして白人の少女が手を取り合う形で設置される予定だ。白人の少女のモデルは オハーンさん。ソン・ソクチュン在オーストラリア韓人会会長は「慰安婦が韓日問題ではなく、女性に対する反人倫的な戦争犯罪であることを世界に知らしめる像になるだろう。日本がどのような妨害をしてきても必ず設置する」と語った。                                                               (引用終り)

 新聞記事の一部の引用だが、 この記事の下には 例によって 「ネトウヨ」と呼ばれる 『愛国者』の書き込みがある。 こういう声が 世界に伝わると 日本の立場は ますます危うくなる。


長生きできて良かったな。   生き恥 晒(さら)してるだけだが

この捏造ババァーも  詐欺罪で捕まえとけよー!

はよ死ねばいい

インドネシア人を虐殺しまくったオランダ人の子孫がなんだって?

死んだらその売春婦像の下にでも埋葬してもらいなさい。


                                                       豪日研究プロジェクト 引用
 オーストラリア政府は2008年6月に、 オーストラリア防衛記念日を 毎年9月第1水曜日に制定すると発表した。 アラン・グリフィン退役軍人省大臣は、 この日は 「わが国が もっとも深刻な脅威に直面した 1942年と1943年に、 オーストラリアの防衛のために尽くした すべての人々の 奉仕と犠牲を記念する」日であると語った。

 はっきりとここでは言及されていないが、 この脅威をもたらしたのは 日本である。 1942年に、 オーストラリアは その歴史上初めて、 本土直接攻撃を受けた。 この年の2月19日に、 ダーウィンは 日本軍による爆撃を初めて2回経験したのだった。(爆撃総数は64回に上った。) その後、 ブルームや タウンズビルなど オーストラリア北部の町も爆撃された。

 ダーウィン爆撃は大規模な被害をもたらしたが、当時のオーストラリア国民の大多数にとっては、日本軍特殊潜航艇のシドニー攻撃がもたらした衝撃のほうが大きかったであろう。 1942年5月31日の夜半、 3隻の日本軍特殊潜航艇が 探知されることなくシドニー湾に侵入し、 その中心部に達した。 そのうちの1隻は、 ガーデンアイランド海軍基地内の軍事目標を狙って魚雷を発射した。 混沌とした夜が明けた時、 21名のオーストラリア人及び英国人水兵と、 日本人潜水艦乗員6名が死亡していた。

   シドニー湾攻撃

 2隻の特殊潜航艇が沈められたが、1隻は行方不明になった。 シドニー湾の海底から引き上げられる特殊潜航艇の写真は、 オーストラリアに対する 日本の脅威を強烈に象徴するものとして、 このテーマを扱う本のカバーや 新聞記事に 繰り返し使われている。 この写真は オーストラリアの人々に 攻撃のことを思い出させた。 さらに、 特殊潜航艇は1943年以降、 オーストラリア戦争記念館の代表的展示物として、 何万人もの見学者に この攻撃がオーストラリアの歴史の一コマであると思い起こさせる。   -- 中略 --

 攻撃後、 オーストラリア当局は 湾の海底から、 破壊された2隻の潜航艇を引き上げ、 日本海軍軍人の4体の遺体を回収した。 オーストラリアの僻地で このような攻撃が実行されたなら、 船体は海岸に放置され、 遺体は付近の墓地にひっそりと埋葬されたであろう。 しかし、 攻撃が オーストラリア最大の都市の中心部に当たる湾内であったため、 マスコミの関心が非常に高かった。 当局は、 前例のない出来事に対処する必要があっただけではなく、 敵の戦闘員の遺体をどう取り扱うか という問題に直面したのだった。

 1942年の攻撃終了後、 沈没した2隻から回収された4名の潜航艇乗員の遺体は、 シドニーでの軍隊式葬儀のあと火葬され、 その後、 遺灰は 日本人外交官や民間人をオーストラリアから日本へ移送する交換船で 日本に送還された。 1942年10月の 遺灰の横浜到着は、 日本人の感情を高ぶらせた。 当サイトでは、 戦争中としては 例外的出来事として、 この時期のいきさつを詳しく取り上げている。 オーストラリア側の手による日本海軍軍人の遺体の礼儀正しい扱いや葬儀の模様は、 日豪双方の当局によって、 まさしくプロパガンダ目的のために広く報じられた。

 潜水艦乗員の遺灰が日本で英雄的歓迎を受けた後、戦闘活動だけではなく子供時代や家族についても多くの記事が書かれ、彼らは伝説的な存在に高められていった。1944年には日本で大作映画が封切りになったが、この映画では、シドニーのハーバー・ブリッジの近くに停泊中の連合軍の戦艦が、魚雷攻撃を受けるシーンが特殊効果撮影で作り上げられ、大きな戦果が上がったかのように表現された。潜航艇乗員は軍神的英雄として戦争中は敬われたものの、1945年の日本の敗戦とともに、このような伝説的存在はあっという間に忘れ去れてしまった。      (引用終り)
                                                 リンク → 豪日研究プロジェクト 

 この事件に対する 日本の人々の見方は おおむね 次のようなものである。
                                                       ちょびまめにっき さん 引用
 豪州海軍の兵士・将校らは強い衝撃を受け、 予想もしなかった 大胆不敵な作戦行動に 心胆寒からしめると同時に、 日本海軍兵の勇敢さに深い感銘を覚えた。 シドニー地区海軍司令官のムーアヘッド・グールド少将は、 一部で上がった反対の声をものともせず こう言った。

 「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには 最高度の勇気を必要とする。 彼等の持っている勇気は、 いずれの国民の特質でも、 伝統でも、 遺産でもない。 (中略) これらの勇士は 最高の愛国者である。 オーストラリア人の幾人が、 日本の勇士の千分の一の覚悟を持っているだろうか」 同年6月9日、 散華した4人の勇気に敬意を表し、 海軍葬の礼をもって弔う。 葬儀は丁重に行われ、 4つの棺は 美しい日章旗に包まれていた。         (引用終り)

 オーストラリア軍が 日本軍人の勇気に驚嘆し、 最高の礼を持って 弔った、と そこばかりを強調する。 確かに それもあるだろうが、 日本に対する 「礼儀」を尽くしておけば、 日本軍の捕虜になっている 「自国兵士」への 配慮を期待していたことも 事実であろう。 また、 日本では これらの兵士は 「軍神」として 崇 (あが) められていくのである。 こういう過程の中で 最も問題なのは、 日本のみの観点を考えるだけで、 オーストラリアで その後 日本がどのように見られたかを考えずに、 『これらの勇士は 最高の愛国者である。 オーストラリア人の幾人が、 日本の勇士の千分の一の覚悟を持っているだろうか』 という言葉だけが 独り歩きすること (オーストラリアは 親日だという論説) である。  オーストラリアでは 「中韓」の煽りがあっても、 慰安婦像など建つはずがない、という 驕りがある。 

豪日研究プロジェクト の他の記事に 次のようなものがある。

 大多数のオーストラリア兵が 日本兵の戦闘能力に多少敬服の念を覚えたが、 それ以上に誰もが感じたことは 日本軍の残虐行為に対する 恐怖と怒り であった。 トル農園の虐殺のように、 日本軍の初期の残虐行為の幾つかは オーストラリアに帰った 生存者の証言によって 戦争初期から オーストラリア兵の間で広く知られていた。 ニューギニアや他の地域で戦う オーストラリア兵は、 実際に 日本軍によるオーストラリア軍負傷兵や 捕虜の拷問や殺害の事例に接するようになり、 こうした残虐行為のうわさは 現実味を帯びたものになっていった。 しかし、 多くのオーストラリア人にとって 日本軍への怒りが頂点に達したのは、 戦争終結後の戦犯裁判において 連合軍捕虜の過酷な取り扱いの全容が明らかにされた時であった。

 戦争終結直後は、 旧日本軍将兵の戦争犯罪裁判が 大きく報道されたことによって、 オーストラリア人の日本人に対する憎しみが 一層強くなった。 しかし、 年月が経つとともに、 オーストラリアの退役軍人も 日本人に対する厳しい見方を和らげるようになった。 少なくとも戦後世代の日本人については、 彼らも 戦中世代の日本人と同じようには見なさなかった。 それでも、 憎しみとまでは言わないまでも、 日本と日本人に対して 疑念を抱く退役軍人が依然としていた。
                                                         (引用終り)

 オーストラリア本土を 空襲し、 シドニー湾へ 「自爆攻撃用潜水艦」を送った戦いが 「自衛戦争」「アジア開放の正義の戦い」という 今の日本の意見を この国が理解するだろうか。 「平和を維持し、他国との戦争をしない」戦後日本を 少なくとも 戦中の日本と同一視しなかった 世界に対して、 「戦中日本」を取り戻そうとする 今の日本の姿勢は 理解されないだろうと 私は思う。

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