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「日本を取り戻す」と 過去70年の歴史を否定している 『安倍総理』が、 自分の考えの正しさを 「過去七十年の歴史が証明」という不思議     NHK経営委員 「長谷川三千子」が産経新聞 『正論』に寄せた危険思想 

 自らが 「 (自虐史観に基ずく) 戦後70年の歴史は誤っている。」とし、 「憲法改正」を訴えているのに その戦後70年の歴史が 自分の言説の証明だという この論理には とてもついていけない。

                                                     2015年3月23日  東京新聞
 安倍晋三首相は二十二日、防衛大学校(神奈川県横須賀市)の卒業式で訓示し、集団的自衛権の行使容認を踏まえた新たな安全保障法制の整備に強い意欲を示した。大量破壊兵器の拡散やテロの脅威など国際情勢の変化を指摘した上で「グレーゾーンから集団的自衛権に関するものまで、切れ目のない対応を可能とするための法整備を進める」と述べた。

 集団的自衛権の行使容認によって戦争に巻き込まれるとの批判には「不安をあおろうとする無責任な言説だ。そうした批判が荒唐無稽だったことは、この七十年の歴史が証明している」と反論した。

 一九九一年の湾岸戦争停戦後、自衛隊初の海外派遣となったペルシャ湾での機雷除去に言及。「わが国にとって死活的な原油の輸送を阻んでいた」と、ペルシャ湾での機雷掃海を可能とする方針を強調した。         (引用終り)

 以前にも 『侵略』の定義は国際的には定まっていない、などと 「第2次大戦の日本の行動」を 「侵略とすること」へ 強く抵抗した安倍総理であるが、 彼のこういう一連の言動の 精神的支柱は 「NHK経営委員」でもある 「長谷川三千子氏」の 影響が強い、と思っている。 まあ、 ああいう方々ばかりが取り巻きとして 連日 懇談しているなら 理論はとても我々の理解する範囲にはなるまい。 その長谷川三千子氏が 例によって「産経新聞」の【正論】に こんな文を寄せている。 これで 「総理談話」に 『侵略』という語は 使われる可能性が ほとんどなくなった。

                                    2015.3.17   産経新聞  【正論】 長谷川三千子  引用 
 日本が侵略戦争をしたのか否かという話を政治の場に持ち込んではならない-これは単に、そういう問題は歴史学者にまかせておけばよいから、というだけのことではありません。もしも本当に学問的良心のある歴史学者ならば、そんな問いには答えることができない、と突っぱねるはずです。

 なぜなら「侵略戦争」という概念そのものが極めていい加減に成り立ったものであって、今に至るまできちんとした定義づけがなされたためしはないからなのです。

 いわゆる「戦争責任(ウォー・ギルト)」条項として知られる231条には「連合国政府はドイツおよびその同盟国の侵略により強いられた戦争の結果、連合国政府および国民が被ったあらゆる損失と損害を生ぜしめたことに対するドイツおよびその同盟国の責任を確認し、ドイツはこれを認める」とあります。

 そして、このような罪状によって、ドイツには連合国の戦費すべてを負担する全額賠償という巨額の賠償が負わされたのでした。

 では、そのような重大な罪であるドイツの「侵略」はどんな根拠に基づいて認定されたのかといえば、ほとんどいかなる客観的検証もなされなかった。むしろ逆に、前例のない巨額の賠償を根拠づけるために、降伏文書では単なる普通の武力攻撃を意味していた「アグレッション」という語を、重大な罪を意味する言葉「侵略」へと読みかえてしまったのです。

 現在のわれわれは、第一次大戦がいわば誰のせいでもなく起こってしまった戦争-各国のナショナリズムの高揚の中であれよあれよという間に拡大してしまった大戦争だったことを知っています。

 その戦争の原因をもっぱら敗戦国だけに負わせる概念として登場したのがこの「侵略」という言葉だったのです。こんな言葉を使ったら、歴史認識などというものが正しく語れるはずはありません。

 つまり、 「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけなのです。 この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という思想が許容されることになるといえるでしょう。

 こんな言葉を、安倍晋三首相の談話のうちに持ち込んだら大変なことになります。首相がしきりに強調する「未来志向」ということは、もちろん当然正しい歴史認識の上に立って、平和な未来を築いてゆくのに役立つ談話を出したい、ということに違いない。だとすれば、歴史を見る目を著しく歪(ゆが)めてしまうような言葉や、国際社会において、「法の支配」ではなく「力の支配」を肯定し、国家の敵対関係をいつまでも継続させるような概念は、決して使ってはならないのです。                                                           (部分引用 終り)

 国家が戦争という手段に訴える場合、 いろいろな「外交的手段」を講じても 相手国との主張の溝が埋まらず、 最終的手段として 『武力』に訴えるわけだろう。 それは、 「勝つ」か「負ける」かのいずれかしかない 最終手段であるし、 「負けて」しまえば、 自らの言い分は 全く通らないことも承知のうえであろう。 裁判同様、 そこにかかった費用は 相手国分も含めて 賠償の対象となることも 承知の上だろう。

 戦争をしておいて、「法の支配」の概念を持ち出すこと自体、 訳のわからぬ言い分であり、 戦争の勝者が敗者に自らの要求を飲ませることは 何も正当化を特段しなくとも 当然の権利として生じるのではないだろうか。 これほど重い結果を招くからこそ、 世界のリーダーは 余程のことがない限り、 「戦争を開始する」ことを 躊躇するのではないだろうか。

 長谷川理論は 「戦争に踏み切る前」と「後」を 混同している。 戦争に踏み切る前に 「世界の世論」を納得させるべく 自国の主張を説明することに努力するのは当然である。 譲歩を引き出し、 自らも歩み寄る。 そうして 「武力による解決」を避ける、 それが指導者のあるべき姿だろう。 「力の支配」を肯定する方法を選んでおいて、 歴史を見る目を著しく歪(ゆが)めている 自分の「史観」に気がついて欲しいものだ。

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