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戦後70年 「バターン死の行進」の再現が 「アメリカ」と「フィリピン」で行われる。 薮蛇だった 「皇国史観論者」の行動。 戦後日本の70年の業績を破壊しただけで終る。

 安倍総理の 米議会演説に対し、 第2次大戦に従軍した米退役軍人らの有力団体が上下両院に書簡を送り、 戦時中の日本の過ちを安倍氏が明確に認めることを演説の条件とするよう要求した。 (共同通信 2015/03/19) と 伝えたが、 今度は その団体が 「バターン死の行進」を語り継ぐ催しを 6千人規模で行ったことが NHKニュースで流れた。 また、 フィリピンの現地でも 「死の行進」を一部再現する行事が、比国防省、観光省、そして国内旅行業者の共催で、捕虜収容所があった タルラック州カパス町で4月11日に行われるのだそうだ。

 日本への根強い批判が 国際社会に今だ厳然とあることを理解しておかねばならない。 その1つの原因は 日本独自の価値観を 他国にも当てはめてしまうという 日本人の感性みたいなものだろう。 最近では 「湯川さん」や「後藤さん」の事件のときに起きた 「自己責任論」、 さらには 「お国に迷惑をかける前に、 自決しなさい」などという 馬鹿げた発言に拍手する神経。 これらは 外から見ると とても異常に見えることだ。 「バターン死の行進」においても、 日本兵たちは 『先陣訓』で 『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず 玉砕せよ。』と教えられ、 他の国のように 「捕虜」に対する尊敬の念が 全く無かったことが原因だと思われる。 -- 外国がすべて 捕虜に対して適切に扱ったかどうかは別として --

                                                             3月24日  NHK
太平洋戦争中、フィリピンで旧日本軍の捕虜となったアメリカ兵が収容所に移動させられた際、多くの死者が出たとされる、いわゆる「バターン死の行進」を語り継いでいこうと、アメリカで元捕虜や兵士などおよそ6000人が行進しました。

     パターン氏の行進

「バターン死の行進」は、太平洋戦争中の1942年、フィリピンのバターン半島で旧日本軍の捕虜となったアメリカ兵たちが、収容所まで長距離、徒歩で移動させられた際、多くの死者が出たとされるものです。
この戦争体験を語り継いでいこうと、フィリピンに出兵して犠牲となったアメリカ兵が多い西部ニューメキシコ州では、毎年、生還した元捕虜やその親族、それに現役の兵士などが行進していて、戦後70年のことしも、22日、およそ6000人が集まりました。

当時、食べ物が少ないなか、炎天下の下、数日間歩いて移動したというスカードンさんは「こうして歩くと、当時の光景を思い出します」と話していました。 また、別の参加者は「戦後70年となることし、過去に起きたことを知るのは大事だと思います」と話していました。                                            (引用終り)

                                                フィリピンと車いじり  2015年02月28日
4月9日がまた近くなってきました。 1942年太平洋戦争の真っただ中、捕虜となった約10万人近いフィリピン、アメリカの兵士を日本軍が長距離を歩かせ多くの犠牲者を出した、いわゆる「バターン死の行進」が始まった日である。 この「死の行進」を一部再現する事を比国防省、観光省、そして国内旅行業者が共催し、捕虜収容所があるタルラック州カパス町で4月11日に実施すると発表があった。

         行進中の小休止 捕虜は手を縛られている
                    行進中の小休止 捕虜は手を縛られている
死の行進における死は、あらゆる形でやってきた。最初に“自然原因”が あった。バターンの兵士たちは4ヶ月間飢餓状態の食糧しか与えられず、またバターンにはマラリアや赤痢が蔓延していた。その結果、日本軍に捕われた兵士たち の健康状態は最悪であった。脱水状態や熱射病、病、過労や負傷などが、多くの男達を行進から脱落させたが、それは殆どの場合死刑の宣告に等しかった。少人数で監視にあたった日本兵の多くは、捕虜が脱走する可能性を残すよりは、倒れた捕虜をその場で刺殺するか銃殺したからだ。あるグループは全く水を持たず、脱水状態で死亡した。同じ道を南下する日本軍のトラックやタンクが、意識的に捕虜を轢くこともあった。ある者は、トラックに乗った日本兵から通り過ぎる際に頭を打たれ、殺されたり意識を失ったりした。日本兵は捕虜を銃剣で刺したが、将校は、捕虜の首を刎ねるのに軍刀を使った。ある者は何の理由も無く殺され、ある者は監視兵が日本語で与える命令に従わなかったために殺され、さらにある者は、指輪やその他の貴重品を差し出すことを拒んだために殺された。

皮肉なことに、日本兵と戦った記念品を持っていることを見つけられた捕虜は、直ちに殺された。日本将校が、ミッキーマウスの時計欲しさに米兵を殺したこともあった。生き埋めにされた者もおり、監視兵から銃口を向けられ、仲間を殺すことを強要された者もいた。フィリピン軍第91師団の400人が、整列させられ煙草を与えられた後で、日本軍第65旅団の兵士により、大量殺害された事件もあった。これについては、後で触れる。疾病、そして行進後に起こった多くの死は、殴打、負傷者の放置、そして行進中に悪化した負傷によるものだった。休憩所の不潔さは、赤痢などの熱帯病をさらに蔓延させた。これが犯罪の種類であった。   【ジム・ネルソン「バターン死の行進」その原因の再考 より抜粋】

この行進は、10.5キロを歩くようである。 参加費は一人750ペソで、参加者にTシャツ、記念品が配られるほか捕虜収容所のレプリカを建設する事業費や犠牲兵士の遺児たちの奨学金に充てられるという。  日本人の参加も呼び掛けている。

私は4月2日には帰国してしまうので、参加出来ないのがとても残念である。                 (引用終り)

 さすがの『右翼』も 事件そのものを否定するものは少ないが、 「捕虜の取り扱い」が部隊によりまちまちだったことを利用して、「捕虜を厚遇した事例」ばかりをやたらと強調し、 被害のほうを無視するか、 日本軍の行為によって起きたのではなく、 上の文で言う 「自然災害」か 「米軍の訓練不足」だと言うものもいる。 いずれにしても、 死んでしまった遺族に対して 「申し開き」できるような論理ではない。 また、 下に紹介する 「日本兵との文化の差」という 言い訳も 世界で通用するとは思えない。 --こういう日本精神には 相手が納得する合理性がない。 --

                                               角田房子『いっさい夢にござ侯』 より
 日本の将兵はすべて「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と教えこまれ、これを絶対の軍律として戦場に立っていた。敗戦となれば、玉砕を目指して最後の一兵まで戦うのが、彼らに課された義務であった。こうした日本の将兵の多くが、恥じる色もなく捕虜となった米比軍の将兵に対して軽侮の念を持ったのは当然であろう。

 検察側証人の多くが「われわれの中で、当然の抗議や要求をした者は日本兵によって殴打され、蹴られ、それらはしばしば死に至るまで続けられた」というたぐいの証言をしているが、投降した後は国際法規による捕虜として扱われるのが当然と信じている彼らの抗議や要求を、日本兵は「捕虜のくせにナマイキな」と受けとって、暴力を振う気になったのであろう。(P387)                                                         (引用終り)

 戦後70年もたってまで 過去の出来事を蒸し返して その正当性を主張する 「一部の人々」の思惑どうりに 事が運ぶとは とても思えない。 営々と築いてきた 「戦後70年の日本の業績」を ただ崩壊させるだけに終るのではないか。

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COMMENT - 1

subaru  2015, 03. 27 [Fri] 11:30

自虐史観とはなんなのか?

私が、直接聞いた話である

国後一の豪商の娘だったとい彼女は色白でとてもきれいな人だったが、誇り高く損得で物を言う人でなく、妥協せず、「憶測で物は言わない」と、言っていた。

豪商だったお店の別棟に、日本軍は本部を置いた
絶対に誰も近づけないようにした
しかし、ある夜、新米の丁稚さんが夜おしっこに起きて、間違って、迷い込んだ。「ごめんなさ、間違えました」は通らない。丁稚さんは斬り殺された。

日本軍はそれはそれはあざやかに撤退し、痕跡を消し去った。証拠となるものは燃やし尽くした。命が大事、という感覚が欠落していたから、ひとをころすことをためらわなかったし、少しでもスパイの疑いがかけられたら殺した。燃やし尽くし、殺し尽くした

 ある日、書類を燃やしているのを見た。翌日には日本軍はあざやかに跡形もなく消えていた。異変を察したお店は、急ぎ逃げたが、本当に間一髪で日本に帰ることができたが、それは過酷なもので、16歳で小柄だった彼女は、顔に墨を塗り、体に宝石類を巻き付け、耳元を銃弾がかすめたりした。でも、一般の人は逃げ遅れどんなめにあっただろうか、といった

それから、ある朝、ばあやと日傘をさして海辺を散歩していた時、10数人の少女たちが男たちに連れられて、歩いて行った。少女たちは細く小さく小学6年生くらいに見えて、「アイゴー、アイゴー」と泣き叫んでいた。慰安所に連れて行かれるのだろうと推測した。男たちが日本人かどうかはわからない。

証拠が無かったら、その事実がなかったことにはならない
伝えれたものがある。何を事実とするかは、叡智である

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