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もし日本が 「国際社会」の中で生きていこうとするなら 「産経新聞を廃刊」にするしかない。  ポツダム宣言を真っ向否定。「外形的に刑を受け入れても、自身 (国家、政府) は実は無罪だと考えるのもその国の自由だ。」

 ガメ・オベールの日本語練習帳さんが 英語人から見た日本の歴史観について 「ドイツ人たちは、自分達が30年代から40年代にかけてやったことについて考えを変更したが、日本人は 『一応、相手の気持ちをそこねないように謝ってはみせたものの、ほんとうはきみだっておかしかったじゃないか』、と社会ごと信じている日本社会の頑固さは、日本の致命傷になりかねない」と 分析していたが、 その日本社会のおかしさは ますますエスカレートしている。

 5月22日付け 『産経新聞』は 次のような論説を載せ、『ポツダム宣言受諾』を 真っ向から否定した。 安倍内閣の「機関紙」とも言われる 本誌であるので、 この考えが「日本会議」「神道連盟」などの 安倍内閣を支えるグループの考えなのだ。 鎖国でもして 「世界との交際を絶つ」気持ちであれば、 それはそれでよいだろう。 が、 今のように 世界各地に出向いて 「積極的平和外交」などと謳い、あれこれ各国と交際したいのであれば、 産経新聞を「廃刊」にして 世界の誤解を解くことから始めねばなるまい。


                                       2015.5.22  産経新聞 【阿比留瑠比の極言御免】
 20日の党首討論を聞いて耳を疑った。共産党の志位和夫委員長が、日本に降伏を求めた1945年7月のポツダム宣言を引用し、安倍晋三首相にこう迫った場面でのことだ。  「(宣言は)日本の戦争について、世界征服のための戦争だったと明瞭に判定している。宣言の認識を認めるのか認めないのか」

 確かにポツダム宣言第6項には、志位氏の指摘のように「日本国民を欺瞞(ぎまん)しこれをして世界征服の挙にいづるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」とある。とはいえ、志位氏はこの認識が絶対だと本当に思っているのか。

 志位氏は討論後、記者団にまるでポツダム宣言が民主主義の聖典であるかのようにこう称揚もした。 「日本の戦後民主主義の原点中の原点がポツダム宣言だ」「ポツダム宣言は戦争認識の原点で、誰も否定できない」  だが、戦前の日本は果たして「世界征服」など目指していたのだろうか。対英米戦は両国などの対日禁輸政策に追い詰められた日本が、窮余の策として選んだ道ではないか。 --経済制裁で追い詰められたら、 これだけ他国を侵略してもよい、という理屈が 世界に通ると考えるほうがおかしい。 --

               最大版図の地図
                日本が 領有した領土の「最大版図」          プチモンテ さんより

 政府高官は討論終了後、周囲にこう苦笑していた。  「どこの国の政治家ですか、という質問だった。日本が世界征服をたくらんだなんて、どれだけリアリティー(現実味)のない話なんだ。テレビを見ていた国民もそう思っただろう

 ポツダム宣言は、戦いを有利に進めていた日本の戦争相手国が出したものであり、日本を「悪者」として位置付けるのは当然だといえる。また、昭和2年に田中義一首相(当時)が天皇に上奏したものとされ、日本の世界征服計画を記した「田中上奏文」が米英などの対日認識に大きく影響していた可能性もある。  田中上奏文については、東京裁判でも取り上げられたが、日本側弁護団によって中国側が作った偽書であることが立証されている。

 東京裁判は、先の大戦は日本の軍国主義者たちの「共同謀議」に基づく侵略計画に沿って実行されたという見方を前提にして始まった。検察側は、それを裏付ける証拠として田中上奏文を持ち出したが、裁判途中で偽書と気づいて追及をやめたのである。

 志位氏が引用したポツダム宣言第6項は、この東京裁判でもインド代表のパール判事らから数々の反論がなされた荒唐無稽な「共同謀議」史観に貫かれている。どうして今さら、そんな珍妙な認識を日本が認めないといけないのか。  ここで思い出すのは、これまで国会で繰り返されてきた「日本は東京裁判を受諾したのだから、その歴史判断も受け入れなければならない」という議論だ。

 国を個人に置き換えて考えてみたい。裁判を経てある判決を言い渡された場合、法治国家の一員である以上、当然、その刑に服さなければならない。 だが同時に、外形的に刑を受け入れても、内心で裁判官の判断を不服に思うのも、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ。憲法19条「思想および良心の自由」を持ち出すまでもない。

 東京裁判を受け入れたからといって、その思想や歴史観、政治的背景、各国の都合や思惑を全部ひっくるめて引き受けることなどできようはずもない。  それが可能だと考える人は、他者の内心に容易に手を突っ込み改変できると信じる危険な傾向を持つ人物だということにはならないか。                           (引用終り)

 さすが、 『御用 (誤用) 新聞』、 志位氏の発言を「世界征服のための戦争だったと明瞭に判定している。宣言の認識を認めるのか認めないのか」と 捕らえてミスリードする。 日本語のわかる方なら すべてが 「間違った戦争という認識はあるか!」 と質問していると考える。 「世界征服か否か」を聞いているのではない。 「世界征服」を誇張し、「どれだけリアリティー(現実味)のない話」と結論付け、「テレビを見ていた国民もそう思っただろう」と もっていく。

 この後で 「産経新聞自身」が述べているように(外形的に刑を受け入れても、内心で裁判官の判断を不服に思うのも、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ)、 「間違った戦争」という認識を表明したくないための詭弁である。 産経新聞にとって 「ポツダム宣言」は 「戦勝国が勝手に出したものであって、どうして 今さら、そんな珍妙な認識を日本が認めないといけないのか」ということになる。 そして、「外形的に刑を受け入れても、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ」 -- この考えを補強するのに 全く愚劣な憲法として 廃止を叫ぶ 日本国憲法19条を 持ち出しているのは お笑い種だが … -- と結論付けている。

 完全に「尻をまくった (居直ること) 」日本がそこに居る。 「刑を受け入れても、 実は無罪だと考える」のは その国家、政府の自由だ、という主張である。 それは、「思想、良心の自由」になるのだそうだ。 どういう 「良心」か 知らないが …  内閣も 発言にクレームがつくと、「言論の自由」だというし、 ひどいものであるが、 これが 「日本の本当の姿」だと おもう。 そうでなくては、 「靖国神社」が いまだに存在する理由がわからない。

 戦争直後は さすがに これを表立っては言わなかったが、 70年後ともなると 「地が出て」くる。 外国の人々が見ても、 そろそろ目立つようになってきている。 日本の多くの国民が 「こういう考え」を 支持するなら 『鎖国する』しか あるまい。 他国とは 付き合わぬことだ。 「謝っても 本心は違う」のだから、 相手が誠意を持って謝っていない、と感じるのは当然であろう。

 私では 現在の日本社会を端的に表現する 「筆力」はないので、 また 『ガメ・オベールの日本語練習帳さん』から 引用してみようと思う。 今の日本社会は 「英語人」から見れば、 こう映るということだ。 

                                       ガメ・オベールの日本語練習帳 さんより 抜粋引用

自分が理解できるいくつかの言語のなかでも、日本語世界に渦巻いている他者への憎悪と悪意は桁違いのもので、なんだかリアリティがないほどのものです。

日本以外の国に住んでいる日本の人は 「そこの日本人!聞いてるか? この国からでていけ。おまえらはおれたち 教育投資や社会保障や医療福祉を盗みにきただけだ。おまえたちは生まれついての嘘つきだろうが。もし、でていかないなら、たたき殺してやるからそう思え」 と叫びながら 毎週末英語人たちが練り歩くのを想像すれば、その恐ろしさも非人間性も簡単にわかると思うが、 「韓国人でていけ」と  叫ぶひとびとが定期的に通りを行進するのを公然と許している社会では、悪意も憎悪もただの生活の一部で、その上に最近は首相が率先して憎悪を剥き出しにしているので、国ごと、まるごと「憎悪の王国」になってしまった感じがする。

観察していると、日本の人には「日本のものは、すべて聡明公正に円滑に動いていて、他国よりもすぐれている」という強い誇りがあって、そうでもないんじゃないの?という人が現れると、強い反撥を感じるらしい。  日本という国を極めて独自の優秀な社会であると感じていて、自分がその「独自システム」の部分であることに特権的なプライドを持っているように見えます。

たとえばニュージーランドでは、「自分は愛国者」だと述べるのは、よっぽどヘンな人で、「わしは愛国者なんじゃ」と言い捨てて立ち去る後ろ姿を観察すると、きっと首の後ろがとても赤いと思うが、それでも赤い首の襟をつかまえて、ちょっとちょっと、そりゃ、あんたが愛国者なのはわかったけど、ニュージーランドのなにを愛してるの?と訊けば、しばらくジッとこちらの目をみつめてから、うーん、多分、自然、かな?   グレートカントリー、イズントイット?  と言うだろう。

日本では愛国者の「愛」の対象は「日本というシステム」であるように見える。
街中の通りが綺麗である。
配送荷物が定まった日時にきちんと届く。
店員の言葉遣いが丁寧で恭しい態度とくずさない。
なにごともタイディでニートである。

日本の人が自分の国を愛している理由を拾ってゆくと、「この快適なシステムがほかで得られるわけがない」ということが愛国心の内容であるよーだ。

日本語をおぼえてから、ここ数年、11回の日本訪問・滞在を中心にして日本社会を観察してきたが、最後に日本に行ってから5年近くになる。  振り返ってみて考えると、アメリカ人の「民主主義を強制する」というやりかたは、結局うまくいかなかったのではないか、という気がする。

民主主義自体は極めて不完全な制度で、その不備は通常は選挙のときなどに実感されるが、この制度の面白い点は、この制度に満足している個人などひとりもいないという点であると思う。  誰もが、もうちょっとどうにかしろよ、と思っているところが、この制度の特徴で、実はそれが民主主義が延々と続いてきたことの本質をあらわしている。

最近、日本の人は、ほんとうは自由主義など好きではないのではないか、と考える。 民主主義の制度は、つまりは制度にしかすぎないので、別に自由な社会であることと本質的な関係はない。 早い話が、選挙で独裁者を選んで自分たちの自由を抹殺することも出来る。

考えてみれば当然至極なことだが、これに「愛国主義」がかぶさると、さっきまで自由主義に見えたものが熱狂的な愛国主義になってしまう。 アメリカの幸運は、それに拮抗するだけの個人の自由感覚を育むだけの長い富裕社会の歴史と積み重ねがあることで、一時の愛国熱も、たいていは言わば「飽きて」しまう。  自分の生活のほうに、ずっと大きな興味があるからでしょう。

これから日本はどうなるかなー、と日本のことを考えると、多分、シンガポール的な全体主義社会になってゆくだろう、と予想される。 そこでは個人の自由がまったく存在しないが、あたりさわりのない範囲では言論は自由で、政府の癇にさわらないかぎりは表現の自由も保証されている。  「悪いことをしなければ自由な社会」で、来歴を考えれば当然のことながら日本の人にはとても向いている。
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COMMENT - 2

とおりすがり  2015, 05. 23 [Sat] 16:29

幸福実現新聞

産経新聞は内閣よりもスポンサーである幸福の科学の影響が強く出ているように思います。

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通りすがりのリカオン  2015, 05. 24 [Sun] 11:06

それにしてもここ数年でこれほど政治も社会も醜く変貌するとは思わなかった
ヘイトスピーチとそれを口では怪しからんと言いながら表現の自由だからと放置し逆に煽っていく政治家、憎悪を煽る一般紙に他国(言うまでもないが中国・韓国を指す)を中傷するためだけの書籍
長く出版流通の世界で働いてそのことに多少の誇りを持っていたけどその誇りもすっかり無くなった、書店に行くたびに「売れれば何でもありか!」という怒りがこみ上げる

パパさんへ
FC2が大変なことになってますがパパさんは大丈夫ですか?真実を探すブログさんがFC2閉鎖も時間の問題だと言ってました
まあ真実を探すブログさんはやや大げさに表現するのがお好きなようですが(笑)

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