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ザ・ガーディアンに載った戦争捕虜 『私は日本を許さない。』や ロイター英語版が伝える『第二次大戦の真実が知りたい?。 日本には聞くなよ』という記事が 今の世界の日本を見る目だと 思える。

                                                山崎 雅弘 ‏@mas__yamazaki
天皇陛下が70回目の終戦記念日である15日、政府主催の全国戦没者追悼式で「さきの大戦に対する深い反省」に初めて言及されたことについて、米主要メディアは安倍首相の戦後70年談話とは「対照的」等と報じた

時事通信の首相動静によれば、首相は日枝久フジテレビ会長らと一緒に夏休み。8月16日に夕食、17日にはゴルフと夕食を日枝会長らと共に。フジテレビの報道番組が首相に迎合的である理由がよくわかる。     (引用終り)

 日本の報道は 西欧のマスコミから批判されているように 『政権より』であることは いがめない。 そればかりでなく、 教科書の右傾化が最近問題となっているが、 授業の方は特定の考えに基づく全体主義で とうにに行われていることも もっと問題にされるべきだろう。 18日のロイター電 (ただし英語のみ) に こんな記事がある。--日本語版では まだ見つけていないので、ひょっとすると、 日本向けには 報道されないのか。-- 見出しがすごい。

 『第二次大戦の真実が知りたい?。 日本には聞くなよ。』となっている。 まあ、 世界の中での日本の立場が分かろうといものである。 使用されている写真は 靖国神社で 日本軍の服装をした人々が写っている。 実際の日本兵は 90歳を超えるのだから、俗にいう『コスプレ』ということになる。


                                              August 18, 2015  ロイター(英語版)
Want the truth of World War Two? Don’t ask Japan.
As part of the events commemorating the 70th anniversary of the end of World War Two, Japanese Prime Minister Shinzo Abe spoke on Aug. 14 at a nationally televised event about the deep remorse his nation feels. While many in Japan seemed satisfied that Abe appropriately addressed the past, governments elsewhere in Asia expressed disappointment at the lack of a clear apology.

ロイター記事

Parts of Abe’s speech were suitably humble. “I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.” He acknowledged that Japan inflicted “immeasurable damage and suffering.”

But Abe also said, “We must not let our children, grandchildren and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize.” He emphasized that 80 percent of Japan’s population was born after 1945. He mentioned Japan’s civilian casualties in the specific — Hiroshima, Nagasaki, Tokyo, Okinawa — without touching on equally horrific events such as the Rape of Nanjing, which took 300,000 Chinese lives, and the sexual enslavement of 200,000 so-called “comfort women” throughout Asia.  リンク → 第二次大戦の真実が知りたい?。 日本には聞くなよ
                                原文が長いのでリンクしておきます。 実際をご覧ください。

 国旗、国歌法が成立したのは つい最近。 1999年の事である。 なぜかというと、 『日の丸』、『君が代』に嫌悪感を持つ人々が 一定数いたからである。 戦争の記録フィルムを見れば一目瞭然だが 『旭日旗』を含め、 戦争と密接に関係している。 いつも 戦争について回っているのである。 戦争を体験した多くの日本人が 「戦争に嫌悪感を抱いて」いた。 安倍総理が言うように、 戦後世代が8割を占め、この世代が死に絶えたことにより 『戦争美化』が たやすくできるようになった。 今発言している人々は、 その現場にいた人はだれもいない。 

 安倍総理の談話を『否定的』にとらえる 欧米のマスコミは 『南京虐殺、慰安婦問題』などの 日本に都合の悪いことには触れないで、 また戦争犯罪らしいことに触れても、 世界的な風潮であったようにしか言わず 責任を認めていない点、さらには 「子や孫の代には 謝罪の義務がない」と 言ったことなどを問題としている。 謝罪を国民に求められたことは一度もなく、 政権に求めているのに 巧みなすり替えを行っている。 自らの「謝罪」は この談話には入っていない。 過去にお詫びしてきた、そういっているだけである。 当時、 カレンダーやポスターに使用されていた 『戦時標語』の一部を書いてみよう。 日の丸が 戦争とともにあり、 国民の命は 紙よりも軽かったことがわかるだろう。 また、 デパートの広告などにも 「鍵十字」と「日の丸」が 何の気なしに入れられてある。 

        一億の 心に染めよ 日章旗        進め日の丸 つづけ国民
        日本文化で 世界を皇化          護れ日の丸  汚すな歴史
        日の丸広げて 世界を包め        日の丸胸に 自粛を盾に 
        日の丸持つ手に 奢侈品持つな     一億が みんな興亜へ 散る覚悟
        護れ寸土も 神の国             任務は重く 命は軽く


     昭和14年7月号掲載の松屋デパートの広告
                      昭和14年7月号掲載の松屋デパートの広告

 最近もそうだが、 国民に真実を知らせないまま、 自分たちだけの判断で 「開戦、続行」して、 敗北したら 『一億総懺悔 (ざんげ) 』なのだそうだ。 確かに、 ほとんどの国民が 『戦争に協力』した。 一部に非協力なものもいたろうが、 それらを徹底非難した。 テロ攻撃のような作戦に対して 国民から「異論」が出なかった。 そんな社会であった。それをあたかもすぐれた社会であったかのように美化する。 なかなか他国では受け入れがたい考えであろう。

 ジューネーブの国連委員会で 「なでしこアクション」と「幸福の科学」が こんなスピーチをしたのだそうだ。
      産経新聞の朝刊
                           全文リンク →国連スピーチ全文(日本語版) 
                           彼らが国連でどんな話をしているのかぜひ知っていただきたい。
 
 すでに アメリカでの意見広告に失敗した実績を持つのに まだ性懲りもなく こんなノー天気な意見を述べる。 このスピーチを聞いた後で この『ガーディアン』の記事を読み、 どちらが正しいことを言っているのか、 彼ら国連委員は判断するだろう。-- 日本語訳は『星の金貨』さんによる --

                                        ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン  7月26日
 ジャン・ブラス氏は植民地で農園を経営するオランダ人の父のもとに生まれました。 -- 中略 --
太平洋戦争が勃発する3か月前、ブラス氏は兄と一緒にオランダ陸軍に入隊しました。 1941年12月の真珠湾攻撃の後、日本はオランダ領東インド諸島を含む東南アジア地域を占領するため、軍事侵攻して来る可能性があったのです。そして1942年前半になると、ブラス家の家族全員が日本軍の捕虜になっていました。 ブラス氏と兄のゲリットは、当時すでに悪名高い存在になっていた『地獄行の船』に乗せられ、数千人の捕虜のひとりとしてタイへ運搬されて行きました。

彼ら捕虜たちはタイから牛を運ぶ貨車に乗せられ、泰緬(タイメン)鉄道の建設現場に連れていかれました。 そこで彼らは絶望的な労働条件の下で、枕木を並べるための5メートルの溝を掘る強制労働者の列に加えられたのです。 全長415kmの鉄道線路を建設するため、約13,000人の捕虜と100,000人の現地労働者の命が犠牲になりました。 この事実は後に『枕木1本に死者1人』という言葉で有名になりました。

ブラス氏は本当の危険は、日本兵が無差別にこれといった基準も無く与える暴力にあったのではないと冷静な口調で語りました。本当の危険はコレラ、そして栄養失調だったのです。 ブラス氏は常に空腹であったことを覚えていますが、死なずに済んだ理由として、英国本土からやって来た兵士たちと異なり、もともと熱帯地方で生まれ育ったために生き残ることができたのだと考えています。

「私たち捕虜は一列に整列させられ、隣にいる相手を殴るように命令されたことがありました。殴り方が弱いと、警備の日本兵がやって来て私たちを殴りつけました。」

ブラス氏は鉄道建設現場で2年間働かせられました。  彼と兄の食事はわずかばかりのコメ、そして筍を細く切ったもの、そしてタンパク質は見たことが無い種類のリスなどの小動物を捕えたものが与えられていました。極めて劣悪な条件下で彼らは強制労働に従事させられましたが、驚くべきことに、ブラス氏は次に彼を待っていた運命に比べれば、鉄道建設の方がまだましだったと語ったのです。

次に彼が連行された先は日本の本土でした。  日本の南にある九州・福岡にあった捕虜収容所に入れられたブラス氏は、近くにある炭鉱で強制労働を強いられました。 それは『極めて危険な』仕事でした。  ここでも捕虜は3人に1人の割合で死にました。
ブラス氏の親友も死にました。 彼は地下の湖がある区域でドリルを使って掘り進む仕事をさせられていましたが、その真上に屋根が崩落して命を落としました。

「私は彼の服を洗濯させられました。」 ブラス氏が語りました。  「その服には彼の脳の一部がこびりついていました。」 ここまで語ったブラス氏が私の方を見ましたが、その口元には疲労の色がありありと見てとれました。  彼は沈黙しました。

追い込まれた状況の中、生きのびるためにブラス氏が選んだ方法は、 「最低限の事だけをする事でした。しかしサボタージュなどは論外でした。こんなことはもう忘れてしまいたいのですが、鉱山での労働はそれはひどいものでした。話にならない程の重労働でした。そして日本人は私たちを殴りつけるための棒を、常にその手に握っていました。」

「何か問題が起きると、日本人は私たちを一人ずつ別の人間と向かい合うようにして一列に並ばせ、互いに殴り合うよう命令しました。殴り方が弱いと日本人がその男を棒で殴りつけ、もっと強く殴るよう命令しました。」 「仲間同士で、殴り合うよう強制されたのです。」

捕虜たちは警備の日本兵の前を行きすぎる際、お辞儀をして「こんにちは」とあいさつすることを義務付けられていました。  急いでバケツ2杯の水をサナトリウムに運ばなければならなかった時、ブラス氏はこの『きまり』を忘れてしまい、残忍な目に遭わされました。  「この警備兵は、全身があざだらけになるまで私を殴り続けました。」

ブラス氏がいた捕虜収容所が解放されたのは1945年9月でした。 ブラス氏は地上にいる彼らに向けてビスケットやチーズを投下して行った、頭上のアメリカ軍機を鮮やかに記憶しています。

解放された連合軍の捕虜たちは、ほんの2、3週間前に原子爆弾を投下されたばかりの長崎に搬送されて行きました。 鉄道の駅のそばでトラックに乗せられたまま時間調整をしていた時、荷台に乗っていたブラス氏は付近を警備していたかつての捕虜収容所の日本兵と目が合いました。 この日本兵だけは一度も捕虜に暴力を振るったことがありませんでした。  警備員は、ブラに敬礼しました。

しかしブラス氏は目をそらし、敬礼を返すことを拒否しました。 「これまでずっと、私はその時の私の態度を後悔してきました。」
と、ブラス氏は言います。

ブラス氏が見た長崎は荒廃の極に達していました。 3km四方、見渡す限りの廃墟でした。  「目に入るものと言えば、焼け焦げた丘の連なりでした。真っ黒焦げです。その至る所に縦に亀裂が入っていました。  家々は完全に破壊され、がれきと石ころになっていました。  -- 中略 --

これ程の虐殺であったにも関わらず、ブラス氏は日本人に対する憐憫の情はわかなかったと告白しました。  彼が感じていたのは戦争を終わらせてくれた、アメリカに対する祝福の気持ちでした。  日本軍の捕虜になっていた中には、解放後に元いた場所に戻り原爆の犠牲者に対する哀悼の意を表した人もいましたが、ブラス氏はそうではありませんでした。

ブラス氏は原爆で黒焦げになって殺された、自転車に乗った男の子の事を気の毒に思っています。  「その特定の出来事のみ、私は気の毒に思っています。」

「けれども、私は日本人が戦争中に行った行為を許すことはできません。」
「戦争中の日本人はケダモノでした。」

収容所を出された後、ブラス氏が見聞きしたものは長崎の焼け焦げた自転車とかわいそうな男の子の話だけではありませんでした。 ブラス氏が決して許すことのできない日本軍の行為、彼の父もまたその犠牲になっていました。 それはブラス氏にとって大きな衝撃でした。

日本兵はブラス氏の父親の口にチューブを押し込み、際限もなく水を注ぎ込んだのです。  胃が破裂した父親はその事が原因で死亡しました。

1958年に彼らはウェールズのレクサムに住みつき、そこでブラス氏は開業医として30年間働きました。 「失われてしまった年月について振り返るとき、あなたは怒りを感じますか?」 こう私が訪ねると、彼は首を振りました。
なぜ?
「めぐりあわせとは不可思議なものです。」 「これまで生きてきて、良いことも悪いこともありました。悪いことが起きたからと言って、そのいちいちに腹を立てる必要がありますか?私は人生が何であるかを理解した訳ではありません。ましてこの世に起きたことのすべてを理解できるはずがないのです。」        (引用終り)

 この記事は 次のような言葉で結んである。 そして ブラス氏の写真が載っている。

彼はこれからも許すことはありません。

敬礼を返すこともしないでしょう。

そして叩かれても蹴られても、倒れることはありません。

   ジャン・ブラス氏92歳。
                                                   ジャン・ブラス氏92歳。

 先の世界遺産登録で 日本と韓国が対立した。 日本側は 「強制労働はなかった。」と主張したことは ご記憶にあろう。 しかし、 まだ生きている 「日本軍捕虜」だった人々の こういう発言は 日本政府の「身勝手な言い訳」を 許さないだろう。 ましてや、 国連の委員会での 「水田安美さん」が行った 根拠のない日本礼賛スピーチなど どんな役に立つのだ。

 第二次大戦の真実が知りたい?。 日本には聞くなよ というロイターの見出しの方を 世界の人々が信用するようになる。
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COMMENT - 2

zenbo  2015, 08. 19 [Wed] 17:21

良い記事ですね。こういう体験記が彼我双方にいっぱいあることでしょう。特に英豪軍に関して言えば、この証言に並行して「アーロン収容所」(会田雄次著)を挙げるのが適当であろうと思います。

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stephano kunio_kato  2015, 08. 22 [Sat] 11:12

日清・日露 までは、かろうじてでは有るものの、世界の戦争法規を守った・大日本帝国が、第一次世界大戦から第二次世界大戦(途中に、226事件があった)にかけて、★残虐非道なケモノになって行ったのか、日本民族にも、伝えられていない。又、安倍晋三とその部下が、これと同じ事をしたいと願うのは何か? も、分らない。

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