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「1%の能力がある者のための世界」を作り上げた現代社会では「いてもいなくてもいいような社会が必要としていない99%の人間」は どうしたらいいのだろう。 ガメ・オベールの日本語練習帳より

 ニュージーランドは 「アメリカの駐留」を拒否してアメリカとの軍事同盟をやめ、その後 国家破たんの危機を乗り越え今に至っていると聞いている。一時、日本が0金利であるのにニュージーランドの外貨預金が十数パーセントの利息が付く時もあった。そのニュージーランドとアメリカは 今は協力関係にある。アメリカからの申し入れらしい。「反捕鯨で一緒にやりませんか。」と言われたとか… 世の中知らないことだらけなのだが…

 何度かブログを引用しているガメ・オベールさんが こんなことを書いている。 ツイッターもされているが、「罵詈雑言」に手を焼いて、やめたい、とも話している。確かに「ツイッター」には 即時性と言う『ブログ』にないメリットはあろうが、携帯というかスマホというかそれすら持たない私には即時性の価値をあまり感じない。 私に用のあるものは 私の都合のよい時に話したりあったりするべきであり、今連絡があって「今」何かをしなくてはならない必要を感じていない。 --携帯を持っていた頃から、強く感じていた。-- 便利ではあるけれども、考えれば必要のないことばかりに使っている。-- こちらからも「秒単位での要望」を誰かにする必要もない。

 話がわき道にそれたが、「現代は1%の『才能ある人間を必要とする社会』を作り上げたが、社会に必要とされていない99%の人々は どうすればいいのか」という問題提起だ。いつもながら 視点が独特で 我々凡人には参考になる考え方だといつも感心する。

                                 ガメ・オベールの日本語練習帳より
 ニュージーランドは、たとえば住居用不動産で言えば、5年前ですでに、アメリカや欧州のアナリストの見積もりの平均で、40%、実質価値よりも高いプライスタグが付いていた。それから5年間で、高級住宅地では、倍になっていない不動産は存在しないだろうから、実質価値とは現実的な連関がない高い価格になってしまっている。

能力ぎりぎりまで借金を負った若い夫婦が、現代的なデザインの建物の駐車場から、高級車で現れて乗り回すが、よく見ると、どの顔も強ばってひきつっている。ニュージーランドも他の英語国なみに「繁栄」の仲間入りをしたのだなーと、マヌケなことを考える。

観光客が集まってくるパーネルの坂をおりてゆくと、ここでも5分の1くらいは去年は存在しなかった店で、不定形な外貌を持って、毎年姿を変えるロンドンにとても似てきている。

「いまの英語圏の株価と不動産価格の上昇は、形態を変えたインフレーションで、インフレ指標になっている消費者物価のほうは当てにならない。真のインフレーションは、姿を変えて起きているのではないか」という、最近の英語世界で流行している説には、信憑性がある。 株価があがれば企業価値が増えて、不動産価格が上昇すれば持ち主のアセットが増大して「豊かになる」という旧来の考えでは、どうにも説明がつかないことが起こっている。

社会が「繁栄」して、個人に多忙と巨大な出費との重荷だけを負わせて繁栄そのものはひとかけらもわけてやりはしないのは、日本のバブル時代だけのことではないよーです。ロンドンでもニューヨークでも、シドニーでもメルボルンでも、「繁栄」は、若い個人から「家を買う」という考えを奪い、高い賃金よりも、さらに成長が早い出費を迫り、結局は自分の街から「普通の生活をしたい人間」を蹴り出して、個性のある店を閉店に追い込み、世界じゅうどこにでもある「ルイ・ヴィトン」「プラダ」「THE BODY SHOP」というようなサインで通りを埋めつくして、退屈な街並みをつくって街から生命力を収奪する。

ここから先の世界は「能力がある者のための世界」になるだろう。 人口の1%に満たない、なんらかの「才能」がある人間を社会が挙げて庇護して、桁違いの環境と報酬を与えて大事にしなければ、21世紀には、さっさと他の国へ行ってしまうからです。

新しい世界の最大の問題は99%の人間が「いてもいなくてもいい人間」「社会が必要としていない人間」になってしまったことであるのは、もうすでに、よく知られた事実であると思う。 流動的な世界では国境さえ意味をなさなくなってしまっている。

だから、よほど間の抜けた国以外は、自国の突出した才能を引き留め、他国のそれを自国へリクルートしてくることに血眼になっている。実際、ごく少数の能力がある人間が競争の要であることを意識できない企業/社会/国家は、どんどん競争のなかで敗退して、地歩を失っている。

では99%の人間は、いったいどうすればいいのか?というのが、ぼくの質問です。

判っている。これは、富の再分配というような古典的な問題ではなかった。ぼくは間違っていた。この問題の本質は、たどり直してみると、意外なことに、資源に対して人口がついに過剰になったことに原因があるよーだ。おおげさで滑稽な響きの言葉を使うと「人類は本能的に」群のなかから選良を選び出して、効率を求め、ブレークスルーをつくるチャンスを増やしている。

それでも、質問は、こうです。残りの役にたたない99%の人間は、どうすればいいのですか?

社会から、余計なだけの、誤差の範囲とみなされた個人は、いったいどんなふうに自分を考えれば良いのか。

答えのない議論が頭のなかをめぐって、雑踏のなかを歩きながら、いつまでも疑問が、いつのまにか出発点に帰る迷路のなかで堂々めぐりをしている。 出口が、どこにもなくて、最後には、どうやってこの迷路にはいりこんだのかも判らなくなってくる。

もう、夜が近いというのに。ひとつの灯も、防御もなく。静まりかえった町。      (編集引用終り)
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