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今日のニュース  報道ステーションが報じた「憲法9条」は 日本の意向で定められた。という「当たり前」がニュースになる「現代社会の不思議」

 最近はテレビもさっぱりご無沙汰 (あの気色の悪い学者、評論家の顔を見ることは精神衛生上悪いので) だが、昨夜の『報道ステーション』で、「憲法9条」が押し付けではないことが「音声記録」で明らかにされたとのこと。当たり前の話なのだが、「慰安婦問題」同様、日本社会では一部の右翼『学者、評論家』の『ねつ造説』を多くの人々が信じているようだ。世界的に見て歴史の浅い新興宗教をこれほど多くの国民が信じている国はないと同様、こんな説をすぐに信ずる国も珍しい。

 憲法が押し付けであって、「日本の意思」がまるで入っていないかのように言う、最近の俗説 (アメリカの若手官僚が鉛筆をなめなめ、数日間で適当に作った…と言うような説なのだが) を信じている国民が多い。そういう説を公共の電波を使って『とくとくとしゃべること』は犯罪にも等しい。

盛田隆二*Morita Ryuji
            画像は盛田隆二氏のツイッターから。ただし、青色の部分は私が加えたものです。

 マンカ「日本の歴史」の変化でもわかるように、こういう説を唱える者は「殺到して特定の社や個人」に抗議の嵐を送る。だれでも出来れば関わりたくないので、結果として「触らぬ神にタタリなし」と表現を変える。今のWikipediaが典型的で、全く引用できないほどになっている。岐阜大学が「国歌の斉唱」を行わないことで、文科相がかみついたが、『国旗国歌法』制定時の政府答弁を知っていれば、かみつく方がおかしい。日本語を理解していれば分かるはずである。


 我が家でも「日の丸」は たんすの引き出しにずうーーっと眠っている。恥ずかしくて上げる気にならない。日の丸も君が代も、自発的に掲げ、歌うものであって、強制されるものではない、と言うことは「制定当時」からわかりきったことであった。元北海道新聞記者である高田昌幸氏の文を紹介しておく。

 差別扇動を垂れ流す
首都のど真ん中で『警官護衛のもと』行われるヘイトでもっ、多数の日の丸と旭日旗がたなびく
                                             高田昌幸
     「強制しない」と首相が約束した国旗国歌法。
          それがつくった今の社会

法案審議は迅速だったが、賛成一色で法案が法律になったわけではなかった。思想信条の自由と強制性の問題、学校教育現場と行政の関係、戦争の歴史とアジアの反応。いろんな問題がテーマになり、国会の内外、あちこちで種々の議論が起きていた。当時、小渕氏が国会で言明した有名な答弁がある。

当時の衆院本会議の議事録から要約・抜粋してみよう。「日の丸掲揚などが強制になるのではないか」という趣旨の質問に対する答弁だ。

<政府の見解は、政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務づけを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている旨を明らかにしたものであります。なお、学校における国旗と国歌の指導は、児童生徒が国旗と国歌の意義を理解し、それを尊重する態度を育てるとともに、すべての国の国旗と国歌に対して、ひとしく敬意を表する態度を育てるために行っているものであり、今回の法制化に伴い、その方針に変更が生ずるものではないと考えております。

「(掲揚や斉唱の指導に)単に従わなかった、あるいは単に起立しなかった、あるいは歌わなかったといったようなことのみをもって、何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるというようなことはあってはならない」

「本当に内心の自由で嫌だと言っていることを無理矢理する、口をこじ開けてでもやるとかよく話がありますが、それは、子どもたちに対しても教えていませんし、例えば教員に対しても無理矢理に口をこじあける、これは許されないと思います。しかし、制約と申し上げているのは、内心の自由であることをしたくない教員が、他の人にも自分はこうだということを押しつけて、他の人にまでいろいろなことを干渉するということは許されないという意味で、合理的な範囲でということを申し上げているのです」 >


教員らが「内心の自由」の下で、本当に嫌だったら強制はしない、という内容だ。その上で、「嫌を他人に押し付けたらいけませんよ」とも言っている。至極、まっとうな答弁に思える。

あれから15年近くがすぎ、日の丸や君が代を巡る風景、議論の内容や位置づけは大きく変わったと思う。法律制定時のこの国の最高権力者が「強制はしない」と言ったことが、その後はすっかりないがしろになり、教育現場では、式典等で君が代が歌われる際、教員の「口パク」を監視したり、告発したりする仕組みまで出来上がった。

こう書いていくと、おそらく、「君が代や国旗は当時よりさらに浸透したんだよ」などと反発される方もいると思う。その通りである。時代は変わる。時代が変わるということは、社会のシステム・仕組みや人々の意識も変わるということだ。そして世代交代は必ず進むから、ある出来事に伴う「変化」は、やがて「日常」になり、「日常」から「常識」、さらに「歴史」へと昇華していく。

私自身はあちこちの講演会やシンポジウム、雑誌記事などで、この法案 (秘密保護法) に対する考え、漠たる不安はさんざん表明してきた。その筋道は、今も大きく変わってはいない。きょう、何か書くことがあるとすれば、この国旗国歌法の「その後」だ。要するに、政府の姿勢や法律の解釈などは、時代の変遷とともに変わっていくのである。小渕氏の答弁と「その後」は、まさにそれだ。

いまの政府の約束は、将来への約束では決してない。そんな実例は、今まで、さんざん見せ付けられてきた。それとも、この法案に限っては、何か特別な担保でもあるというのだろうか。だから、「知る権利」に配慮するからとか、そんな言質にもならぬ言質と交換に、単なる行政官庁を国会の上位に持ってくるような法律をつくってはいけないのだと思う。 (引用終り)

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