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【復帰一作】  縄文時代を考える。常識にとらわれず、多方面から推測すると、発展した社会が見えてくる。そして、この文化は滅亡したこともわかる。

 今年の気象は例年とは違う。夜間の冷え方が全く無い。深夜2時になっても32~33度という夜が連続する。エアコンの無いのは私の部屋だけだが、エアコンを買っても、電気容量的に無理だ。3台が限度なのである。契約アンペアを変えないといけない。貧乏はつらい。ようやく気温が30度を下回り、何とか記録を書き続けることができそうだ。

 クーラーが故障で入院中の高齢者が5人死亡した病院があったが、岐阜も同様な暑さであったのであろう。「日本国政府」としては、お国の役に立たない高齢者の問題など頓着しない。そういう政府の姿勢に批判が起こることも無い素晴らしい国だ。

 さてさて、ネットによると今年は「縄文ブーム」なのだそうだ。あの『火焔土器』や『国宝の土偶』をみて、「日本民族の創造性と芸術性」を『さすが、日本人。スゴイ』と自画自賛している。この縄文人とその後の弥生人では骨格や芸術性が全く違うことは広く知られている。学者ではないので確かな事はいえないが、日本列島に居た「縄文人」は絶滅に近い形で弥生時代に移って行ったと思っている。

                              Business Journal 2018.08.28
 東京国立博物館(上野公園)で開催中の展覧会「縄文――1万年の美の鼓動」(NHK、朝日新聞社など主催)が人気を集めている。火焔型土器や土偶「縄文のビーナス」など教科書でもおなじみの国宝をはじめとする多数の出土品が展示され、夏休みシーズンということもあってカップルや家族連れでにぎわっている。

 この夏の暑さで『縄文時代』が暑かった事をふと思い出した。何しろ「縄文文化」の中心は東北や関東山岳部、どちらかといえば現代の避暑地である。九州ではジャングルのような森林に覆われていた。少なくとも2メートルから5メートル程度、今より海面が高かったようだ。今年の暑さを考えると、まさに「縄文時代」へ後戻りしているのではないかとさえ思える。海面が数メートル高いという事はそこに流れ込む川の水位も数メートル高くなるわけだ。先日のゲリラ豪雨のような東京での夕立への対策も今の海水面を基準にしていることを考えると根本からやり直さないとダメだろう。

          -- 参考 --   人口から読む日本の歴史       鬼頭宏著
 縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも約2度低かった。しかしその頃から気候は温暖化しはじめ、6千年前には現在より1度以上高くなった。気候温暖化に支えられて、関東・中部の人口は縄文中期までに環境の人口支持限度いっぱいに達していた。そのような状況にあるときに気候の悪化が起きるとまず動物相に影響があらわれる。そして生産力の低下にもかかわらずいっそう環境から多くのものを引き出そうとするから、環境の悪化ないし破壊を加速してしまう。その結果として一人あたり食料消費量は減少し、栄養不良の状態が拡がることになる。同時に、縄文時代後半には大陸から新しい文化をもった人々が渡ってきていたが、縄文人にとっては免疫のない新しい病気ももたらされたと考えられる。

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 縄文時代のことを書いてあるサイトをいくつか読んでみたが、北日本に偏っている縄文遺跡の原因をいずれも「植生」が原因としている。栗やクヌギなどの大粒の木の実がとれる落葉広葉樹林帯がその原因で、西日本の常緑樹林帯ではその力が無かったとしている。「本当に?」と思われないだろうか。この地図は10キロ四方に対する人口である。四国などは一人である。どの方向に10キロ歩いても人っ子一人いない島だということになる。これが事実なら、原因は他にあるだろう。いくら常緑樹林帯でも、チンパンジーでももっと生存しているはずだ。いくらか知恵のある人間ならもっと生存できる術を探すだろう。

 そこで以前紹介した「破局的大噴火」の降灰資料を重ねてみる。

       民俗学伝承ひろいあげ辞典
                           民俗学伝承ひろいあげ辞典 引用

 これですっきりするだろう。この鬼界カルデラの噴火から1億年以上前に姶良カルデラ(鹿児島、錦江湾が火口)の噴火があり、九州を含む西日本の生物は死に絶えていたが、ようやく新たな生物群が出現し始めていた。地層で20センチという事は降ったときは10倍の高さはあったといわれているので2メートル、これでは植物も動物も逃げ場は無い。まさに死の世界になったはずだ。

                        企業実務オンライン より引用
 鬼界カルデラの破局的噴火は、約 7,300 年前に生じた。時代は既に縄文時代中期で、最も温暖化した時代である。 噴煙柱は高度3万メートルまで立ち昇り、それが崩壊した火砕流は、四方の海面を走り、100 キロ離れた薩摩半島にまで達した。むろん、西の種子島、屋久島なども火砕流に焼き尽くされた。

 火山灰は南九州一帯の地層に 60 センチ、大分県で 50 センチの厚さで残っているが、通称「アカホヤ」と呼ばれる。鬼界カルデラ火山灰は、数メートルも降り積もって九州や四国の縄文人を死滅させた。 といのも比較的近年、アカホヤの地層の下から縄文時代の大集落が発見されて、縄文文化再評価のひとつとなった。

 その集落は舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていた。この高度な海洋民族を思わせる縄文人を全滅させたことがわかる。 その後、1,000 年ほど九州は無人の地だったようで、新たな縄文文化は朝鮮半島からの渡来人だったと考えられている。


 縄文時代は「採集狩猟の時代」として我々は学んできている。一体採集狩猟の時代とはどんな時代だったのか、漠然と思うことは『サルなどに近いその日暮しのような生活』だろう。本当にそうか。まず、学校で教える「縄文時代」の考えがおかしく、狩猟と採集の生活で、食料を求めて次々と生活場所を変えていた、ように書かれている。さらに挿絵などでろくな衣服も着ていない、原始人として描かれており、これが理解を妨げている。定住は稲作が伝わった弥生時代の特徴としている。

 上の図の百平方キロあたりの人口密度300人というのは限界値だそうだ。自然にあるものを採取するだけで生命を維持できるのは百平方キロで300人未満、当時世界最高の人口密度だったと書かれている。青森の三内丸山遺跡は500人の集落だったという。限界を超えているのだが、そこには栗などの栽培と、絶好の環境という偶然が重なったものらしい。これが千年近く続いたと推定されている。ところが非常に短い期間でこの三内丸山遺跡から人々は去っていく。「地球規模の寒冷化」という説を東大教授が唱えていたが、最近では否定されている。実のところはわからない。

 最近あった「東北大地震」で、多くの居住地から住民が消えたのだが、何千年か後に「なぜ消えたのか」議論が起きても、実のところはわからないで終わるのと同じだ。私は「局所的であったとしても、2、3年冷害が続いたのではないか」と思っている。この点を書いてあるサイトでは、当時は食料を求めて居住地を移動することは普通であった、というように書かれているが、それはとても疑問に思う。縄文時代は、もっと社会が発展していたのではないのか、一旦それが途絶えて「弥生時代」に移行したのではないのか、そう思える。

大型高床建物1
直径2メートルの柱穴が等間隔に並び、直径1メートルのクリの柱も発見された三内丸山

                    松山大学 縄文時代―採集、狩猟と漁労から
縄文時代の人々は、鳥獣や魚介も食べていたが、どんぐりなどの木の実が中心であった。エネルギーの80%は木の実など植物性食料に依存した。余った木の実は地中に穴を掘り貯蔵した。木の実を食べていたため、縄文人はでんぷん摂取量が多く虫歯が多かった。平均寿命は20才くらいと予想されるが、乳幼児の死亡率が高かったからで、生き延びた人は50才くらいまで生きたと考えられる。室町時代とあまり変わらない良い栄養状態であった。

縄文時代の人々は、一定の場所に集落を作り、家族とともに竪穴住居で暮らした。なかには、青森県の三内丸山遺跡のように500人もが暮らした巨大な集落も存在した。三内丸山遺跡には周りに大きな栗林があり、この栗林のクリのDNAが均一である事実から、栗が栽培されていたことが分かった。また縄文時代中期には焼畑農法が伝来し、豆類などの初歩的畑作が行われたが、これが食の中心になることはなかった。

貝塚はこの時代にゴミ捨て場として利用された。東京湾岸などには、ごみを含まない大型の貝塚が見つかったが、ハマグリなどの干し貝を製造する加工場の跡である。また地域間の交易も盛んで、青森県の三内丸山遺跡では北海道の黒曜石・新潟県の翡翠・岩手県の琥珀、秋田・山形県方面のアスファルトが出土している地域間の交易のネットワークは海外にも広がっていて、朝鮮半島やシベリアで縄文時代の日本の黒曜石が出土している


  三内丸山は多方面と交易している。「交易」といわれるとなんとなく同意してしまうが、貨幣の無い時代、何と交換したのか、考えてしまう。多分、「クリ」だろう。保存性がよい上、確かに美味いのだ。この「通貨」を失ってしまうことで、この集団は崩壊し、滅亡へと向かったのだろう。縄文後期の西日本の人口増を北からの移住者として考えるのは余りにも故事付けだろう。火山灰の影響が徐々に薄れて、自然増としか思えない。

 上の資料に「北海道の黒曜石」とあるが、黒曜石ではなく鏃(やじり)やナイフと言ったほうが良いのではないか。原料としての黒曜石の需要もあったのかもしれないが、鏃のような微細な加工を必要とするものはなかなか素人の手に負えるものではない。高くても(?)職人技の物の方がよい。鏃(やじり)を製品として販売しに来ていたのではないか。流通に携わる人々がいたのではないか、そんな疑問さえわく。そうすることで、三内丸山の「クリ」同様、各地で特産品を作る分業が進んでいたのではないか。

 特に「火焔土器」は同一の人、もしくは同じ工房で作られたもののように似ているものがある。日用品である「鍋釜、貯蔵壷」に使うにしては余りにも装飾が過ぎる。(使い勝手が悪い)どちらかいうと、お土産物として売っていたのではないか、と思える。

                         2018 諏訪地域の魅力を探る。まほろば諏訪圏
和田峠から霧ヶ峰にかけて、本州で最も良質な黒曜石の大産地があり、数万年前の旧石器時代の諏訪の人々は黒曜石の鉱山を開発し、本州の広い範囲に広めている。縄文中期には、三内丸山遺跡や大阪の遺跡でも和田峠産の黒曜石が発見されている。縄文後期には、東日本全域に大量に流通した黒曜石の大部分を占めたようである。

    良質な黒曜石の大産地
     石を打ち欠いて作った『打製石器』という教育が誤解を生んでいると思う。
縄文後期以降の寒冷化に伴い、諏訪地方の遺跡数は一挙に減少し、弥生時代後期に復活してくるまで住居跡はほとんど見られなくなっている。しかし、金属器が普及する前の東日本では黒曜石の需要が一層高まり、各地で出土する黒曜石の石器から、その9割を下諏訪町の星ヶ塔産がまかなっていたようだ。


 「各地で出土する黒曜石の石器」はすでに『石器』として持ち込まれ、黒曜石として持ち込まれたのではないだろう。長野県から青森までどのくらいの日数がかかるかわからないが、数日ではすまないことだけは確かである。それを持っていく人々は、原石で売る(?)のではあまりにも効率が悪く、製品として運んだだろう。そして、その期間「採集、狩猟」はできないわけで、誰かが分担しているはずである。もちろん、閑散期に運んだとも思えるが、運ぶことを分担しているものが居たと考えたほうが納得いく。ただ、今までの学問では、縄文時代は社会が未発達であったことを前提としているので、こうした考えは受け入れられていない。

 こういう既存の常識に縛られて、このころの竪穴式住居の家族数を4人と考えているものが多い。まさか「核家族」でもあるまいし、幼児を含めてもっと数は多かったのではないか。平均寿命が30歳(多くの主張では)だとして、今の概念では子ども二人と思えるのだろうが、12,3歳になれば妊娠可能だろうから、30歳までに何人の子を生めるかということになる。

 地球が「ゴリラの惑星」「チンパンジーの惑星」にならずに「人間の惑星」になった理由の一つがここにある。チンパンジーやゴリラは『授乳期間』に子どもは作らない。いわゆる「発情」をしない。チンパンジーは授乳期間が4~6年、ゴリラは4年、オランウータンは7~9年だという。その程度の間隔で子どもを作っていく。人間は授乳期間が2~3年なのだが、何ということか、出産後数ヶ月もすれば、妊娠可能になり、年子の兄弟も珍しくは無い。

 他の類人猿は授乳期間が終われば、子どもは独り立ちするのだが、人間の場合、5~6歳までは少なくとも独り立ちできない。実際はもっと長いだろう。フランス革命で処刑されたマリーアントワネットの母親は16人子どもを生んだ。「上を向いて歩こう」を歌った坂本九は9人目の子どもだからそう名づけられた。竪穴住居の中はぎっしりの人が入っていたのではないか、そう思える。この出産数の差がホモサピエンスの今の繁栄をもたらしたと解く人も居る。

 縄文中期から晩期にかけて、「縄文海進」という海面上昇が起きていた。ヨーロッパ、北米で南極大陸の氷床に匹敵する氷床がとけ、世界的に見られる海面上昇だ。ただ、北米やヨーロッパという氷床が溶けた地域では、氷の重みから開放された陸地は海面上昇のスピードを越えて隆起し始めたので、この影響は遠い地方でしか起きていないという。そこで、縄文の温暖化(平均気温で2℃)をこの1点に求めていたのだが、最近では当時暖流である黒潮が日本列島に沿って流れていた、と主張されている。

 今の常識である「青森、新潟の姿」は当時とは全く異なるものであったと思える。雪深い東北ではなく、冬のほとんど無い東北であった可能性もある。十日町市博物館のHPには「火焔型土器」の説明をこのようにしている。スゥーッと頭に入るこの説明文も、縄文を考える上ではジャマになるのかもしれない。

                                 十日町市博物館
 火焔型土器は、立体的な装飾に富み、優れた原始造形美を有する土器です。その独特な形や文様は、近隣各地の土器様式の影響のもと、今から約5300年前に信濃川中流域で成立し、同地域において約500年間にわたり継続、発展したと推定されています。分布の中心が列島有数の豪雪地帯であるこの地域にあることは、当時の社会領域を知る上でとても示唆的です。

 火焔型土器はオコゲが付着することがあるため、煮炊きに使われたことは確実です。しかしそうでない個体もあるため、祭りなどの非日常的な用途に供されることもあったのではないかと考えられています。


伊達市教育委員会HPから2

 一昔前の景気のよい時代には「宮型霊柩車」といわれるまったく装飾過剰な霊柩車が人気があった。より華美なより凝ったつくりの霊柩車を庶民が望んだ。火焔型土器というものはそれと同様のものではないだろうか。炊飯器の四隅に高さ10センチのきらびやかな装飾があったり、茶碗や湯飲みの4箇所に5センチの華やかな装飾があったりしているのとさほど変わりは無い。

 サウジアラビアの王族が日本に来て最も欲しがったという『宮型霊柩車』。それと同じように、縄文時代の富裕層が欲しがったのが「火焔型土器」では無いのだろうか。「原始共存社会」とか「貧富の差の無い社会」という縄文時代の常識が邪魔して「事実」を見落としていると思う。ほとんど使われた形跡のない「多数の火焔型土器」がある。紐を通す穴と説明されている突起部の穴に磨耗の跡はない。では何のために所有していたのか。旅館などが玄関の飾るあの大きな「有田焼の壷」のようなものなのか、それとも「ジャガー」や「ベンツ」のような豊かさの証明なのか。

 火焔型土器を見ていると、徐々に装飾が大胆になっている。一般の土器から(といっても縄目模様とは関係もなく平底なのだが)少しずつ発展してきていることがわかる。しかし、日頃使用する「茶碗」を装飾のある高価な(?)なものを選ぶか、現代の人のように百均ショップで買うかを考えてみる。この装飾を当時の縄文人が受け入れた。話題にした。かっこいいと思った。ここが重要である。いくら素晴らしいものであってもね人々に受け入れられなければ、広まりはしない。他地域へ輸出されることもない。

 用途としての優れたもの(切れ味がよいとか長持ちするとか)なら、支持される理由としてわかりもするが、使い勝手が悪く、かつ生産の手間が驚くほどかかる以上、価格(?)は高くなる。それでも欲しい人がいた。いや、作れと命令できるような立場の人(支配層)がいたとも考えられる。縄文時代は、我々が学んだ以上に「発展した社会」だったのではないのか。日中37度、真夜中でも33度を下回らぬ今年の夏の間、ボーーーッと考えていた。
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