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without コロナを選択したニュージーランドが「感染者0」 100日間を記録。「死者、重症者が少ない日本モデル」に納得する日本人。ロシア大使館が「8月8日に宣戦布告文書を手渡した」とツイート。そんな日本人の弱点を「ナショナルジオグラフィック」が1943年に書いていた。

 「with コロナ」を選択した国と「without コロナ」を選択した国ではかくも違うのか、という実例をニュージーランドが示している。もちろん、アーダーン首相が行った「without コロナ」の政策には批判も多かった。3か月分の休業補償と共に「都市封鎖」をしたわけだが、もう一度感染者が拡大したならば「国家破綻だ」とも言われた。そういう声の中での「英断」であった。

 今では100日間「感染者0」を続けている。各種の催しもすべて観客を入れて、ソーシャルディスタンスとかいうわけのわからぬものもなく、以前の生活を取り戻している。日米とも、この決断ができなかった。

2020年8月10日  AFP
ニュージーランドは9日、国内で新型コロナウイルスの市中感染が確認されなくなってから100日目の節目を迎えた。ジャシンダ・アーダーン首相は10日、同じく感染封じ込めに成功している太平洋の島しょ国クック諸島との間で、互いに隔離なしの渡航を認める「トラベルバブル」を年内に構築する計画を明らかにした。ニュージーランドには今も23人の感染者がいるが、いずれも入国時に確認された事例で、現在は隔離下にある。

 アシュリー・ブルームフィールド保健局長官は、「100日連続で市中感染ゼロを達成したことは画期的だが、知っての通り、現状に満足している場合ではない」とコメント。「いったんウイルスを封じ込めた地域で、すぐに感染が再燃し拡大する事例を海外で見ている。ニュージーランドも今後、感染が確認され次第抑え込む準備を整えておく必要がある」と述べた。

選挙活動を始動させたジャシンダ・アーダーン首相

 ニュージーランド政府の新型コロナ対策は、効果的だとして広く称賛されている。人口約500万人の同国では2月に初の感染者が確認され、政府は3月19日に国境を封鎖した。国内の感染者数は累計1219人で、市中感染は5月1日を最後に確認されていない。

 この結果、国民はソーシャル・ディスタンシングの必要もなく、スポーツの試合や文化イベントなども観客を入れて開催するなど、「コロナ以前」とほとんど変わらない生活を送っている。ただ、国境は厳しく管理され、全ての入国者に14日間の隔離が義務付けられている。


 国の規模が違う、農業国だなどの言い訳はともかく、「中国」「韓国」「台湾」でも同等の結果を出しているのだから、日本がなぜできなかったのかを真剣に考えたほうがよい。「死者が少ない、重症者が少ない」という言い訳は、今「軽症な患者」がそのまま回復して初めて言えることである。

2020年8月9日 沖縄タイムス
 沖縄県の宮古島市は9日夜、新型コロナウイルスに感染した市内の高齢女性の容体が急変し、死亡したと発表した。新型コロナ感染症による県内の死亡例は8人目となった。

 この時期になると、恒例のことではあるが、『第二次世界大戦』の話が多くなってくる。テレビ番組でも、少しはそういう話になる。昨日駐日ロシア連邦大使館の公式ツイートで下のようなことが書かれていた。

駐日ロシア連邦大使館
1945年8月9日、ナチス・ドイツの東側の同盟国であった日本との戦争で鍵となる戦いとなった、赤軍による満州戦略攻撃作戦が開始された。その一日前の1945年8月8日、米国と英国という、ヒトラーに抗する二つの連合国に対する義務をはたすべく、ソ連は在モスクワ日本大使に、宣戦布告の文書を手交しました

1945年8月9日  小さくて青いダイヤモンド満州作戦の目的は、日本陸軍最強の部隊であった関東軍の壊滅と、中国北東部(満州)、朝鮮北部の開放で、それにより第二次世界大戦を早急に終結せしめることでした。ソ連軍の猛攻により日本人は追い詰められ、日本軍の部隊は防戦を余儀なくされ、反撃に転じることはできませんでした。関東軍が壊滅し、本土での軍事経済上のベースがない状態で、日本は現実的な威力と戦争を継続する可能性を失ったのでした。敵側は合計8万4000人が戦死し、64万人(!)以上が捕虜となりました。目的は達成されました。❗

満州作戦は、第二次世界大戦中の赤軍の作戦の中でも非常に成功したものでした。


 これは「日本国内」で流布されている「ソ連の宣戦布告なき卑怯な攻撃」という俗説に対しての反論だと思われる。極右評論家の『櫻井よしこ氏』は、次のように書いている。

 この辺の事情について詳しく知りたい方は八月九日付けの「産経新聞」一面トップの記事を読まれるとよいと思います。編集委員の岡部伸氏が英国立公文書館の極秘文書をスクープしています。

 ソビエトの対日参戦は宣戦布告なしの参戦だったことが詳報されています。日本政府がソ連の宣戦布告を知ったのは日本時間の八月九日午前四時、すでにソ連兵の武力侵攻開始から四時間が経っていました。日本政府が正式な宣戦布告文を受け取ったのは八月一〇日午前十一時一五分、ソ連侵攻開始から三五時間以上が過ぎていました。

 日本の真珠湾攻撃は宣戦布告の文書が一時間遅れたために、卑怯な攻撃だと強く非難されてきました。ソビエトは国際条約である中立条約を破った上に宣戦布告もなしに日本を侵攻したわけです。


 この件が詳しいわけではないので論評は避けるが、ロシアはチェルノブイリ原発事故での会議の模様さえ記録に残している。どこかの国とは違う。この証拠があるのであれば、さらに日本の信頼は傷つく。文書をしっかり管理し、記録を残すことがいかに重要か、安倍政権にも考えてほしいものである。

 ここでもよく「科学分野」の記事に引用する『ナショナルジオグラフィック』に「日本の百年」なる記事があるのだが、その中で「戦中戦後の日本を米国人記者はこう見ていた」という項目がある。

2020.02.05  ナショナルジオグラフィック  ←リンク
 大戦の前後、日本は敵国であった米国の記者にどのように見られていたのだろうか。 1888年に創刊したナショナル ジオグラフィック誌は、創刊当初から日本の素朴な人々やすぐれた文化、美しい自然について数多く紹介していた。

日本の素朴な人々やすぐれた文化

 たとえば戦前、1933年3月号に掲載された特集「長い歴史をもつ若い国」はこんな具合だ。

 「日本人女性の和服には自然の趣が感じられる。乙女が美しい着物や髪飾りで着飾った姿には、感嘆の声を上げずにはいられない。西洋とは異なり、日本の文学、美術、言語に、自然を擬人化した表現はめったに見られない。それでも、日本人はあらゆる自然に何者かが宿って、美しい山々には神々がすむと考える」

ところが太平洋戦争が始まると、その内容は一変する。 日米開戦の翌年1942年8月号に掲載された「知られざる日本」を見てみよう。敵国である日本人の心性を辛らつな言葉で分析している。

「日本を知る努力をしても無駄だと考えるべきではない。日本人を知る努力が、日本との戦争を1日でも早く終わらせ、平和を達成することにつながるはずだ。

 日本人の強みの一つは、人命軽視である。日本人は国のために死ぬことに価値を見いだす。彼らは子供の頃から、個人の存在はさほど重要でないと教えられ、集団行動を好み、チームワークに優れている。」

日本人のもう一つの強みは、良心の欠如である。彼らは「日本を発展させるものは何でも正しい」という道徳律に縛られている。国家と天皇は神聖であり、あらゆる善悪の基準を超越する。日本の行く手を阻むような国際協定なら破棄するだろう。日私たちの最大の脅威は、こうした誤りに導かれた日本人の熱烈な忠誠心だ。日本人の狂信性や能力を過少評価したり、逆に過大評価したりすることには気を付けなければならない。

 日本の弱点の一つは、敵を過小評価していることである。日本は米国の経済力を認識しているが、その豊かさがかえって米国の発展への活力を奪っていると思い込んでいる。日本人には、上からの命令に盲従するという弱点もある。慎重で、こと細かな事前の計画によって成功してきた日本は、その計画を覆す事態が発生した時には、狼狽してしまう

 次に紹介するのは、1946年6月号の特集「古い太陽が沈む日本」。
「連合国軍の艦隊が1945年9月に日本各地の港に錨を下ろしたとき、日本人も日本という国も多くは謎に包まれていた。不意打ちを受けないように警戒しながら、私たちは上陸地点の丘や岩場を調べた。流血の惨事にならずに上陸地を見つけ、爆撃や身投げする日本人の「バンザイ」の叫び声に悩まされずにすんだことを、私たちは感謝した。

「ある日、少女が恥ずかしげに近づいてきて、ミカンを1つ差し出した。日本人の報復行為を恐れる恐怖心は、その瞬間、ほとんど消えた。これがほとんどの米国人が初めて出合った、驚くべき日本なのだ。「敵を憎んではいけない」という天皇の命令が絶対的に守られていた。しかし、この従順な日本人の特性こそが、同時に日本の民主化を複雑なものにする。

 国の力を盲目的に信じていた日本人は、米国の巨大な力によって、それが覆されるのを目の当たりにした。そこで日本人が出した結論は純真にも、米国のやり方のほうが優れているに違いないというものだった。それゆえに日本人は米国の占領支配を受け入れ、米国の意思に従い、より良い方法を学び、自らを順応させる努力を惜しまない。民主主義は目的に近づくための手段ではなく、それ自体が目的とされた。

 日本では今、古い太陽が沈み、新しい太陽が民主主義とともに昇ろうとしている。それは近代的な顔をした民主主義で、この国に定着するには、きっとビタミン剤を服用する時のように処方箋が必要なのだろう」

 ここに記されていることは、あくまで当時の米国人記者が見た一方的な視線であり、事実とは異なる記述もあるだろう。しかし、元新聞記者だったウォリザーは、戦後1年もたっていないタイミングですでに、民主主義という枠組みだけを日本に移植することに違和感を覚えていたようだ。  -- 部分引用 --  (全文はリンク先で)

 しかし、すごいとしか言いようがない。翌年1942年8月号では、「日本の弱点」を冷静に分析し、1946年6月号では日本での民主主義の定着に疑問を呈している。いずれも今現在、問題になっていることだ。こういう「記者」や「知識人」に意見の場を与え、相手を客観的に分析する能力。それに引き換え、日本の「コメンテーター」「知識人」のレベルの低いことよ。いやいや、それこそが「日本人の弱点」として看過されているのだから驚く。
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