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さらば、ゆとりの教育    教育現場で今起きている事

 子育て支援が鳩山内閣で行われる。これは少子化対策として生まれた。確かに少子化の解決にはなるかもしれない。フランスなどを見てみると、国家が援助することによって出生率は上昇してきている。

 しかし、ヨーロッパ諸国と違って「東洋の僻地 日本」は、ただ単に子供の数が増えるだけでは困るのではないか。この国が世界の中で「存在」していけるような次世代にしなくてはならないはずである。

 そう考えていくために最も問題なのは、「悪名高きゆとりの教育の是正である。この教育は当時アメリカで行われていた教育の模倣といわれている。(その後アメリカは学力低下問題が起こり、日本の初等教育をまねたとも言われる。)

 尾木、寺脇両氏を代表とするこの「ゆとり教育」は、その是非を論議することなしに(はじめから既定方針に沿った委員を選んだ)始められたと考えられる。

 教育現場で見るとはっきり分かることは、「それまでいなかったような低学力者の出現」である。まず、それまでは「割合」はできなくとも、分数計算ぐらいは出来たものが、分数どころではなく、掛け算九九が出来ない。それも、中学生になって、これである。英語で言うと、受験を前にして、goodが書けない、thisが書けない。そういう生徒の割合がどんどん増えてきてしまった。

 本当に信じられないことが起きている。教科書が読めない、ノートがとれない、漢字が書けない、席に座っていられない、九九が言えない・・・。指を使わないとたし算ひき算ができない。
 学校のテストでは80点、90点をとるのに、実際には九九も満足に言えない。社会科のテストで漢字で書こうとしない中学生がいる。実際「じゅうななじょうけんぽう」と書く。せめて十七くらいは漢字で書けよ。

  戦後の詰め込み教育によるおちこぼれや非行の問題を反省し、1977年の学習指導要領の第4回改訂から、学習内容を減らし個性とゆとりを重視した「ゆとり教育路線」が始まった。そして1989年(平成元年)の第5回改訂では、子どものやる気といった、関心、意欲、態度などを重視した「新しい学習観」が打ち出した。また、「教師は教える立場ではなく、あくまでも子どもが学ぶのを支える立場」へと変わった。
 2002年の第6回改訂で「ゆとり教育」が本格的にスタートすることになった。このとき、教科の内容の3分の1をカットし、大幅な学習内容の減少を伴っていた。
 ところが、それは教科書のページで3分の1であって、内容としては半分になったといっても良いものであった。教育に関係しない皆さんに分かりやすく言うと、「方程式」を習う場合、「方程式の応用」という文章題を削除するようなものだ。確かにページ数では3分の1であるかもしれないが、ここを理解するのには、大半の時間を使ったことを思い出していただけると思う。

 手っ取り早く言うと、MAX時から半分以上減らした内容が「現代の教育」と言える。
 この教科書になったとき、問題集を作るメーカーが「どんな問題が作れるのだ?」と悩んだことを知ってもらいたい。我々「塾屋さん」も何を教えるのか、悩んだものだ。(「教えるところがない。」とか「あっと言う間に終わってしまわないか。」とか)

 文部科学省のスポークスマンとして寺脇研氏が、ゆとり教育の効果をしきりにマスコミで訴えていった。彼の主張は「ゆとりの中で、学習内容を厳選し3割削減した上で、自ら学び、自ら考える力を育成するのがねらい」ということだった。

 文章や漢字が満足に読めないのに、自ら学び、自ら考える力があるのだろうか?
 たし算、ひき算、かけ算、わり算が満足にできないのに算数・数学を自ら学び、自ら考える力が生まれるのだろうか?という疑問が国民の間に生まれた。

 いざふたをあげてみると、ゆとりの中身は、「寝る」、「ゲームをする」、「塾や習い事」ばかりで、真のゆとりにはつながる気配はなかった。京大の西村和雄氏が98年に、日本と中国の一流といわれる大学の文系学生を対象に数学の問題を解かせる調査を行った結果、中国の学生が95%の正答率を示した問題に対し、日本の大学生の正答率は、東大45%、京大23%、慶応5%、早稲田2%という惨憺たる結果だった。

 寺脇氏は文化庁へ左遷!?されたのは決して偶然ではないだろう。寺脇研氏は、かつて広島県の教育長に天下って改革を行った結果、公立高校からの東大京大進学者が激減し全国最低レベルに落ち込んだという実績(前科)がある。しかし、ゆとりの教育は続けられた。一度決めたら戻らない、公共事業と同じだ。

 教える知識を減らしてしまったら、知識に基づかない判断は、思考と言うよりも当てずっぽうである。繰り上がりのたし算が満足に計算できないのに、ひっ算などできるはずがない。わり算は3年生で習うが、わり算のできないこのほとんどはかけ算ができない。かけ算ができないのだからわり算ができるはずがない。
 社会科などでは「調べ学習」が行われ、時にインターネットなどの使用が推奨される。インターネットに書いてあることを、そのまま写したようなものが高く評価される。一人の生徒は歴史上の人物を一人か二人しか知らない結果となる。継続した歴史の授業が行われていない。

 今回、ゆとり教育の見直しが行われるが、それは「1つ前に戻る」だけである。
 英語の教科書を例にとって、今「教育にたずさわっていない」皆さんに、その危機的状況を話してみたいと思う。

 1977年以前の中3の英語の教科書は27課(Lesso27)まであったのに現在は9課(lESSON9)である。1ページあたり10から15行の英文も今は5~6行。
 比較級(最も~とかAよりもBが~という文)もかつては原級、比較級、最上級、不規則変化をするものと分かれていたのに、今は1ページで全部出してくる。 

 この教育問題は速く解決しないといけない。時間のない問題である。


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