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外務省主張 「尖閣は 日本のもの」 の 中心たる サンフランシスコ平和条約 を 考える。

 ニャン子太郎さんから 「コメント」をいただいたが、 書かれてあることには 私も同意である。 それは分かっている。 分かってはいるが、 書かずにおられなかった。 日清戦争にしても、日中戦争にしても、 ナチスドイツ同様  圧倒的な 世論の支持があったと 私は思っている。 「日本国民には、罪はない。 当時の軍部が悪かったのだ。」 と 他国が許してくれたが、 そんなことはない。 現在と同様 もしくはそれ以上の 世論の支持が あったのだと思う。

 教科書では、 当時 「反戦論」があったかのように 教えるが、 私は 「学生のころから」 それは 全くの (ある意味での) でたらめだと思っている。 仮にあったとしても、 太平洋戦争後に掘り起こしたか、 当時 袋叩きにあったかの いずれかであろう。

 我々が信じている 「尖閣諸島は 日本固有の領土である」という主張が、 付け入るスキもないほどのものなら、 台湾が主張しているように、 国際司法裁判所で 『白黒』 を つけてしまえば、 二度と 「中国も台湾」 も、 異議を唱えないだろう。 竹島に対しては、 日本は 「国際司法裁判所」へ 提訴を同意するように 韓国に求めている。 尖閣諸島に対しては、 韓国が 拒否すると同様、 日本が 拒否している。

 外務省の HPにある、「尖閣諸島に関する 領有権についての基本認識」 を見ると 中国の反論の時期以外は、 中国の認識と 異なることはない。 しかし、 中国が問題にしている 「日清戦争」と その講和条約である 「下関条約」に関しては、 何の記載もない。 それ以前の 歴史的根拠 (中国側が指摘している点) も述べられていない。
                                              -- 外務省 ホームページ より --
 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。

 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。

 従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれています。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものです。

 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。

 また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません。   
                                                           (引用終り)

 日本が 勝ち誇ったように使う サンフランシスコ平和条約について、 今日は少し考えたい。 日清戦争と 下関条約に関しては、 先日 私なりの考えを述べた。 私の意見を補強しようと いろいろな方のブログを見てみたが、 同じような視点でこの問題を捉える方は 少ないようだ。 -- 東京都知事の越権 という考えも 当時はほとんど見受けられなかったが、 最近は チラホラだが、 そう書かれている方もある。 気長にまとう。 --

 さて、 1951年(昭和26年)9月8日 日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)が結ばれた。

 サンフランシスコ平和会議には日本を含む52カ国が参加した。だがすべての国が調印したわけではない。 ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアの3カ国は、 中国が出席していないことを理由に 調印していない。インドネシアは調印したものの批准しなかった。インド・ビルマは出席しなかった。

1947年(昭和22年)3月に連合国軍最高司令官マッカーサーによって早期講和条約の提唱がなされた。 これを受けた米国国務省が講和条約案を作成した。 それは、次のようなものであったと されている。

    領土問題・・・沖縄・北方領土の割譲。
    日本国憲法に規定された基本的人権の保障。
    政府機関による超国家主義的なイデオロギーの情宣活動の禁止。
    監視機関の設置と、極東委員会構成国大使からなる大使理事会・監視委員会の設置
    25年間再軍備禁止及び軍需生産の禁止。
    極東委員会の決定を尊重する賠償の実施。    (注:極東委員会とは日本占領の国際的な管理機関)

米国は極東委員会構成国に対して対日講和予備会議はの開催を提案したが、ソ連・中国(国民党政府)の反対により挫折した。 一方、米国内でも 国務省政策企画室は 冷戦外交上 対共産主義勢力に対して警戒が不十分であると批判した。

日本をソ連の勢力圏下に陥らせることなく米国の同盟国とすること。 (悪くても中立国)  そのために日本を政治的に安定化させる必要があり、結果として日本に対する経済復興政策を推進する必要が有ると 政策企画室は提言した。 これを達成させる為に講和条約締結を延長し、6年8ヶ月にもおよぶ長き占領体制が続けられ 講和条約案を 『簡潔かつ一般的で懲罰的でないものにする』 といった方針が打ち出された。


1948年(昭和23年)10月、国家安全保障会議は 政策企画室の この提言を正式に採択した。

1949年(昭和24年)9月、米国務省は 英国の要請 により早期講和を推進することを決定する。

 そこで 統合参謀本部に戦略上の問題点の協議検討を依頼した結果、

           (1)日本本土への米軍基地保持は講和条約締結後も必要である。
           (2)ソ連・中国(共産党政権)も参加した上での全面講和が必要。 
              以上2点の条件を提示してきた。

 国務省は この2点は 相容れないものだとし、統合参謀本部と対立し、以後 対日講和 は止まってしまう。

1950年(昭和25年)3月、対日講和の担当者に国務省顧問ダレスが就任。

  同年   6月      来日したダレスはマッカーサーを説得して新戦略構想を提案する。
                これは日本全土を潜在的な軍事基地と考え、自由に使用できるようにするというものであっ
                た。
以後この構想の下に米政府の対日講和が推進されていく。

                またこの時期、朝鮮戦争が勃発した。
                ダレスは対日講和条約が懲罰的な条約とならないように心がける。

                日本を同盟国(もしくは中立国)としておくために必要であるとして米大統領トルーマンを
                説得、対日講和を推進した。

  同年   12月     中国軍の介入により朝鮮戦争は米軍は不利になる。 対日講和に反対する統合参謀本部
                を説得し、講和を進める。

1951年(昭和26年)1月~2月   朝鮮戦争の状況が悪化。

                在日米軍の殆どすべてを朝鮮半島に投入した場合に備えての予備兵力として、日本軍の再
                軍備を迫る。  講和条約の前提条件として再軍備が決定。
                当時の総理大臣 吉田茂はこれを受け、警察予備隊(後の自衛隊)を発足させた。

一方英国をはじめとする諸外国との交渉も再開された。  英国の主張は 日本の経済活動を制限しよう とする方向で進められたが、最終的にはダレスが説得し、これを押さえた。

また 中国問題も、 揉めることとなる。 当時の中国は国民党政府が台湾に脱出後崩壊しており、1949年(昭和24年)に建国された共産党政府『中華人民共和国』によって統治されており、これを認める英国との間で折り合いはつかなかった。 中国との関係は、 講和時 ようやく締結後に 日本側の判断に委ねることとした。

表面上は そういうことだが、 裏では 講和条約により 日本の独立回復が出来た本当の理由の一つ として、ダレスに要請された『中国共産党政府を承認しないと誓約する吉田書簡』の存在があったためだとされる。

1951年(昭和26年)9月8日 日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)が結ばれた。となり、
1952年(昭和27年)4月28日 発効 ・・・ここに、初めて 日本は 独立国に戻った。 となる。

 中国が言うように、 「サンフランシスコ平和条約」 には、中国は一切関知していない。 あれは、 わが国とは関係ない、と言い張っても 言い逃れできる。 なにしろ、 米国とは 交戦状態であったのだから 当然の話である。  日本として、 この 「講和条約」 だけで、 その主張が 通るとは思えない。

 表面的な 出来事を 並べてみただけだが、 この講和条約には 「アメリカの強い意向」 が働いているのは 確かなようだ。 

 まず、 アメリカは 日本に 「いつでも、どこでも、どの規模でも」 米軍基地を 自由に作れるようにしたい、 これが 「講和条件」 だったようだ。 だから、 どこかの知事が、 「横田基地の撤去」を選挙公約としていたが、 それについては全く口をつぐんでいる事でも 良く分かる。

 沖縄米軍基地の移転に関しても、 それを言うと言うことは、 講和条約と同時に結んだ 「日米安全保障条約」の 根幹に関わるのだから、 とても 出来ない相談であろう。 

 最近 右派勢力が言う 「日本の核武装」 も、 この条約の趣旨から 全く認められない。 米軍基地は 社会主義国を見張ると共に、 日本をも 監視しているのであり、 核武装は 米国として受け入れられる政策ではない。 -- 最近 話題の 「オスプレイ」 も 安保の性格上 (米軍が自由に日本を使用できると言う) 野田総理が言ったように、 『日本がとやかく言える問題ではない』 のである。 --

 話題がそれてしまった、 元に戻そう。 「 (やはり、チャンコロは) 民度が低い。 寄らば切るぞ、と言えば良い。 」 などと 言っていて 国際世論が 味方するかどうか、 分かるときがくる。 今度の自民党の総裁選の候補者は、 「今までの政府の謝罪」を撤回する (もしくは、修正する)人ばかりだ。 さて、 どうなるだろう ……  日中関係 ……  

 私の考えと近い方は、 いろいろ見てみたが 日本にはいない。 swissinfo.ch さんが スイスの新聞からとして紹介している したの記事くらいだ。 まあ、 いつの時代でも 「少数意見派」なので、 慣れっこであるが ……

                                                   2012-09-21  swissinfo.ch   
 ドイツ語圏の日刊紙ターゲス・アンツァイガー ( Tages Anzeiger ) は、デモ・暴動は国内問題のうっぷん晴らしとみる日本人の一方的な態度を批判する。「自らを被害者と見なす日本人は、対立激化の原因は隣国の強硬な態度にあると考え、中・韓両国は日本の弱みにつけ込んでいると主張する。さらに、中韓両国を領土問題を使って(中韓両国自らの)国内問題から国民の目をそらさせようとしている国々だとみている」

 だが同紙は、実は中国の主張の裏には、第2次世界大戦で受けた屈辱の感情が尾を引いていると言う。「尖閣諸島周辺で水産資源やガス資源が豊富なことが判明して初めて、中国は領有権を主張したと日本は言う。だが、中国人にとってこの島は侮辱の象徴なのだ。日本は1931年に中国北東部を占領し、その後東沿岸全てを支配。このときから中国への侮辱が始まったと中国人はみている」。「ところが日本は戦争での残虐行為すべてに対し今まで誰も責任を取らず、『あれは戦争だったから』と過小評価する」

 ル・タン紙も、この10月に満州事変についての本を出版するブルーノ・ビロリ記者に、こう言わせている。「結局、第2次大戦は終了していない。アジアでは、いつも、ある出来事が巨大な争いに発展する可能性が潜在的にある。それは、日本が全く戦争を反省せず、日本の歴史の中で最も暗いページの部分を認めようとしないからだ。そして今、中国共産党はこの戦争に根を持つ『日本人嫌いの感情』を最大限に利用している」         (引用終り)

   いや、また、長い文になってしまった。 最後まで お付き合いいただいて、まことにありがとうございます。


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