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アメリカに 「慰安婦通り」が出来る。 むやみに 「捏造」主張した 結果が これだ。       尖閣諸島問題と 下関条約  外務省の 「棚上げ論 知りません」 は 通用するのか。

 韓国の歴史を振り返ってみると、 他国の事ながら 哀れに思う。 日本が 海に囲まれた島国であったことを 感謝せねばなるまい。 中国、ロシアと言う 超大国と隣接し、 後ろは海で 逃げ道がふさがれているわけだから ……

 明から 清へ 中国の王朝が変わる際に、 屈辱的な大敗を喫した 李氏朝鮮は 以降 外交や防衛に関して 自国の意見を持たずに 清の言うままにしてきたようだ。 国内の政治は 専ら 「権力闘争」にあけくれ、 勝者が、敗者の重臣や官僚の 処罰を 繰り返してきた。 結果として 能力のある者が しだいに減り、 処罰された 怨念だけは 日々増していくと言う 最悪の事態になっていったようだ。 さて、 徐々に 本論である 下関条約に 近づいてきた。

 1884年12月、 漢城(現在のソウル)で放火騒ぎを起こし、 混乱に乗じて 王宮を制圧して 閔氏政権の 要人を殺害し 高宗王を確保した 親日派のクーデター 甲申(こうしん)政変が起きた。 日本軍の援助を 期待していたが、 形勢不利とみた日本軍は動かず、 政変は3日で終わった。 首謀者は 日本に亡命するか、 処刑され、 この時点で 政権内に 本当の親日派は いなくなった。

 日清戦争直前、 日本側は 「反日勢力」を 直接 手を下して 一掃し、 親日政権を造った。 このころからは、 日本政府は 従来の外交による 説得をあきらめ、実力で 朝鮮を奪おうとする政策に切り替えたように思える。「曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、イカナル手段ニテモトリ、開戦ノ口実ヲツクルベシ」という指令を出すほど、 何が何でも、 朝鮮問題をここで 決着してしまおうと言う 姿勢がある。

 日本軍は、1894年7月23日未明、 首都漢城(現在のソウル)の 王宮を襲撃して 高宗王を監禁し、 閔氏政権を転覆させ、 親日的で「改革派」の流れをくむ 金弘集らの政権 を発足させて 、大院君を執政にすえた。 そして、朝鮮政府が 清国軍の撤兵を 日本に依頼することを 強要し、 これを口実に戦闘を開始した。

 ところで、 清国の この戦争への対応に 不思議な点がある。 清側からは北洋軍(淮軍)しか動員されていない。 南では、フランスと、ベトナムをめぐって、北では ロシアと 国境をめぐって 対峙しているとはいえ、 宣戦布告する戦争ならば、 国中の軍隊が (最低限を残して) 来てもよさそうだが、 事実上、 日本軍と北洋大臣・李鴻章との戦争だった。 -- まともに戦える軍隊は、 李鴻章の軍隊だけだった、という説もある。--
 大帝国たる 清国は かねてより 日本を 弱小国視しており、 明治維新後の 日本については 、軽佻浮薄、 みだりに 西洋文明の まねごとをした 一小国夷と嘲り、 優勢な 陸海軍をもってすれば 戦わずして 屈服しうるか、 戦ったとしても 一撃のもとに 粉砕しうるものと 信じられていた。 

 それ以前に、 日本の政争から 和戦国論の 一致が得られず、 たとえ 戦うも 内部崩壊の危険を はらむ 脆弱な国家である と判断していた。 世界各国も、 同様に 国土面積・経済力 その他 あらゆる面から見て 清国の勝利は 始めから 疑う余地がない とする観測が 支配的であった。

 清は GNPで 当時の 日本の四倍、 艦艇の総トン数や 陸上兵力でも 日本を上回っていた。 この事実によって 清の中枢が 日本を 過小評価し、 自国を 過大評価する 結果につながったのではないか、と考えられている。 -- 最近の 日本国内の 論調の中には、 中国の国力、科学力を 異様に低く見積もり、 一撃で粉砕、 または戦わずしても勝てそうな 意見が 蔓延している。 歴史から 学ぶべき点は多い。 --

 清国は アヘン戦争以後、 軍の近代化に動いた。 決して 日本よりも 遅れていたわけではなく、 進んでいたとも言われる。 ところが、 西欧の言うままに 兵器をそろえていったので、 各兵器間に互換性が 全くない。 隣の兵士の玉が切れても、 玉を補充できないのだ。 -- どこかの国の原子力発電所では、 電源喪失の際に プラグの型があわない、 コードの長さが足りない、 で 取り返しの出来ない 事故にしてしまったのだから、 清国を 笑える立場にないが …… --
 また、 兵器の近代化だけを進めても、 軍隊の機構、 兵士の鍛錬 (身分制度が邪魔をし 字が読めないなど 兵器の取り扱い方の周知、徹底が出来なかった) などが 手付かずであったことも 大きいと いわれている。 -- どこかの国では 親子3代の政治家ばかりと言う 身分制度の固定化もあるし、 これも 清国ばかりを 笑えない。 --

 戦闘が 連戦連敗を重ねると 清国 中枢部は 動揺し、 日本が直隷 (現在の河北省の地域) に上陸して 北京を 攻撃しようとする 事態を 深く憂慮しだす。 ただし 清は 大国意識が抜け切れず、 小国と思っていた 日本側に 大国の清から 和平を 直接提案することに 躊躇 (ちゅうちょ) した。

 アメリカを 仲介として、 間接的に 日本と交渉しようと試みるが、清側の態度の 不誠実さを 日本は非難し、 直接交渉にしか 応じないとした。 結局、 日本の 軍事上の脅威が 無視できないことを 重く見た 清政府は 日本との 直接交渉を決断し、 李鴻章を 全権大使として 日本の 下関に派遣し、 和平交渉をすることになった。
 -- WIKI に よると、1894年11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を開始する。しかし12月4日、伊藤博文内閣は「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」を大本営に提出。実際に台湾を占領しなければ、世論に応え、台湾の譲与を和平条約の要件として盛り込むことはできないと確認した。となっており、 台湾 割譲のため、 休戦する意思が 全く なかったことが 分かる。--

1895年1月31日、清国使節の張蔭垣と邵友濂が講和のために広島に到着が、 所有している書簡が 全権委任状ではなく、また地位についても 不十分なので、講和を結ぶことができないとした。

    3月19日、全権大臣の李鴻章と李經方が下関に到着。
    3月21日、日本側は徹底した譲歩を要求した条件提示したので休戦は先延ばしとなった。
    3月23日、日本側は歩兵一個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させた。
    3月24日、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望む。
        -- 日本側は、 無理難題を押し付け、 交渉を長引かせることによって、台湾まで戦線を延ばして、 
           和平は その後でよいと 考えていた。ところが、この帰途に李は小山豊太郎に襲われ負傷する。
    3月24日、李鴻章暗殺未遂事件が 起きる
        …… 外国の全権大使をテロリストが襲ったという弱みを持った日本側は 休戦協定を受け入れる。
    3月28日、日本側は休戦条約の草案を清側に提示

 一人の跳ね上がり分子の 行動で、 休戦協定は 打ち出したものの、 それまでの方針と 違った 結論に持っていくことは 難しかったのか、 休戦はするが、台湾、澎湖列島およびその付近 は除く、などという 全く 勝手な条件をつけた。 -- どうしても、 台湾を手に入れたい。 との思いだろう。--

 現在、「日清戦争」→「下関条約」を見ると、 不当とも思える 「その内容」は、 当時の こういう 休戦を受け入れずに、 無理難題を押し付けながら 台湾占領まで 既成事実を作る という 戦略があったからであろう。 ところが、 暗殺未遂事件で 急遽 「停戦受け入れ」のみを決め、 当初の要求は そのままを 押し通してしまった。 清国側からも、 再三 修正を要望されたが、 日本側は 強行に拒否をし、 受諾するか 否かのみを 問うた。

 この話だけすると、 「尖閣諸島」は 一度も出てこないわけだが、 だからと言って 全く別のものだ、 関連はないとも言い切れない。 日本側の 主張の中で、 これを 並列的に書いてあるものは 残念ながら まだ見つけていない。 私が はじめてかも知れぬ。-- そんな馬鹿な事はあるまいが …… --

1885年  沖縄県知事西村拾三が、尖閣群島を同県の所轄     1884年  朝鮮で甲申政変
       として国標を建設したい旨大政大臣宛に上申               親日派のクーデター 失敗
       上申を受けた井上外務郷は、清国との間に問題
       の起こる事を恐れ、これを退ける。


1894年5月31日  農民軍が全羅道首都全州を占領  甲午農民戦争(東学党の乱)
     6月 2日  混成旅団(戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した
     6月 5日  清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着  6月10日 に農民軍と政府は 和睦 両国に撤退を求める 
     6月15日  出兵の目的は、「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。
     6月16日  日本は 混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させる
      7月23日  日本軍が、朝鮮王宮を 襲い、金弘集らの政権 を発足させる。 
              新政権に対し、牙山の 清軍 掃討 を日本に依頼させた。
     7月25日  豊島沖海戦  朝鮮へ 兵を輸送する 軍艦を撃沈
     7月29日  成歓の戦い  
     8月 1日  日清両国が宣戦布告
     9月15日  日本軍の平壌攻略  進軍優先の作戦のため、糧食不足が深刻で、平城で 清軍の食料
             1ケ月分を確保し、何とかしのぐ。 日本軍の悪しき伝統である。
     9月16日  黄海海戦  北洋艦隊を撃破、日本が制海権をほぼ掌握 
    10月 9日  親日政権打倒をめざす「斥倭斥化」をスローガンに、東学農民軍が再蜂起 
    11月 6日  旅順の攻略に成功  
『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(12月12日付)で、「旅順陥落の翌日から四日間、幼児をふくむ非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じた。 現在この事件は、旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。
    11月22日  清  講和交渉を 申入れ
    12月 1日  海城攻略を命じる  翌年2月27日まで4回の攻防戦が行われる
    12月 4日  山東作戦を決定 
1895年
     1月14日  尖閣諸島をわが国の領土とする閣議決定を行う。

     3月23日  日本軍 澎湖列島に上陸をはじめる
     4月 1日  講和条約の草案を日本側が提示する。
     4月17日  下関条約締結

 さて、 とうとう 下関条約まで来たしまったが、 この段階での 日本の 「尖閣列島の領土宣言」を みなさんは どう見るだろう。 日本政府の言うように、 誰のものでもなかったので、 領有した、 まあ、 それならば それで 問題はあるまい。

 中国が 言うように、 それ以前から 中国領であったものを この段階で 日本が領有した、のならば、 中国側が、 反論や 抗議の声を上げなかったり、 出せなかった というのは 理解できる。 一部の方の言うように 「抗議していない」ことは、 日本側の 有力な 材料とは いえない。

 突き詰めてしまうと、 下関条約以前に どちらが領有していたか、 と言う問題になってしまう。 13世紀だ、14世紀だと さかのぼった所で、 また 後から それより古い歴史書が発見されれば それで終わりなわけで、 水掛け論 (結論は出ない) になるだろう。

 しかし、 今回 「外務省のHP」を見て、 この件に対する意見が (以前と比べて)しっかり述べられていたのには 驚いた。  変な ブログの影響を受けるより まず 外務省の ページを 読んだほうが良かろう。

 しかし、 このページにも 何度か言っているように 弱点がある。 それは、 下関条約で 盗られた というよりは、 当時のこういう環境下 (歴史的背景) で  主張が出来なかった、と言うような 説への対抗策 が 不十分であること。 

 周恩来や鄧小平氏との「棚上げ」や「現状維持」について認めていない。と いう主張が 受け入れられるのか という点である。

 まず、第1の論点 であるが、 中国側が 下関条約以前に 中国が 領有していた 証拠を挙げれば、 仮に無人島であっても、 日本の分は 悪くなる。 当たり前のことだが、 異議を唱えなかった、という 反論は 当時の歴史を振り返れば 通用するまい。 -- 中国が 日清戦争の末期、 およその 勝敗がついてしまってから 姑息に 領有を宣言している、という主張は 全く 受け入れられないものではない。 --

 また、ほぼ同時代に 発見していたなら、 どちらの領有と 決めることは 困難であろう。 今後の世代に 解決をゆだねると言うのが、 最善の策だと思う。

 外務省のページには、 「棚上げ論を日本は認めていない」と 主張する箇所がある。 そこには 周恩来、鄧小平両氏との 会談の 外交文書が 掲載されている。     ( 以下 外務省 HP 引用 )

1.尖閣諸島が我が国固有の領土であることは,歴史的にも国際法上も疑いないところであり,現に我が国はこれを有効に支配しています。尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません。

2.このような我が国の立場は一貫しており,中国側との間で尖閣諸島について「棚上げ」や「現状維持」について合意したという事実はありません。この点は,公開されている国交正常化の際の日中首脳会談の記録からも明らかです。このような我が国の立場については,中国側にも幾度となく明確に指摘してきています。

  

【参考:日中首脳会談(田中角栄総理/周恩来総理)(1972年9月27日)】         (外交記録公開済み)

 (田中総理)尖閣諸島についてどう思うか?私のところに,いろいろ言ってくる人がいる。
 (周総理)尖閣諸島問題については,今回は話したくない。今,これを話すのはよくない。石油が出るから,これが問題になった。石油が出なければ,台湾も米国も問題にしない。


【参考:日中首脳会談(福田赳夫総理/鄧小平副総理)(1978年10月25日)(日中平和友好条約交渉時)】
                                                       (外交記録公開済み)
 (鄧副総理) (・・・思い出したような素振りで・・・)もう一点言っておきたいことがある。両国間には色々な問題がある。例えば中国では釣魚台,日本では尖閣諸島と呼んでいる問題がある。こういうことは,今回のような会談の席上に持ち出さなくてもよい問題である。園田外務大臣にも北京で述べたが,われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが,次の世代は,われわれよりももっと知恵があり,この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ。(福田総理より応答はなし。)

 確かに、 わが国の 「田中総理」も「福田総理」も 「お説、ごもっとも」とは 言わなかったに違いないが、 「尖閣諸島は 日本固有のもので、なんら領土問題は 存在しない」と 主張したとは 聞いていない。 これらの発言について、 日本側から 強く抗議したことも、当時 聴いた記憶がない。

 若い方は ご存知あるまいが、 当時 中国は 「台湾 (中華民国) を 国家と認めるならば、 国交は結ばない」と 世界に向かって 発言していたくらい、 教条的なところがあった。 もし、 外務省の言うように、この両者の (周恩来と鄧小平の両氏) 意見と異なる見解なら 国交は結ばないであろうと 思われる。

 公平な目で見て、 外務省の言い分には、無理がある。 この会談の内容は 有効だ、ということを 前提に なんとか 尖閣諸島の 領有を実現する方法を考えるべきであった。 -- 現状のように、 占有しながら、 中国漁船の取り締まりは、 中国が主に行い、 やむを得ない場合は 強制送還することを 後 少なくとも 30年続ければ、 自然となるようになったと 思われる。-- 100年間の実績が出来るので …… --

 しかし、 この案は 今回の石原氏の 「愚行」で オジャンになった。 なれば、 次善の策の 「棚上げ」にのり、 共同開発くらいしかあるまい。 少なくとも、 毛沢東ー周恩来 路線からの 提案を 「我が方は承知していません」では 納得するまい。 どうしても、 そういう主張をしたいのであれば、 国交断絶しかないくらいは 分かっていよう。 両氏とも 今の中国の創始者なのだから、 現在の政治家とは わけが違う。

 いずれにしても、 下関条約までで、 日本が 決定的に不利になる材料は出てこなかった。 また、 逆も言える。 決定的に 有利になることもなかった。 これが、 中立的な判断であろう。

 政治ブログの 上位に並ぶ 人気ブログの論調は、 こうやって「年表」を 見てみると、 都合の良いところだけの つまみ食いで ストーリーを 作っているものが多い。 世界の世論を向こうに回して それを納得させるなど とても出来そうにない。

 何度も指摘するように、 『現在』 日本で主張されている 意見は、 世界の中で 劣勢である。 ちょっと前、 夕食時に NHKのニュースで ニューヨークに 「従軍慰安婦通り」が出来ることになった、と伝えていた。   大筋は 下のようなもの ↓

 ニューヨーク市の、韓国系が多い フラッシング156番街の名前が「慰安婦通り」(comfort women memorial way)に改名する。 先ごろ名称変更案をニューヨーク市議会に提出したと明らかにした。来年2月ごろに変更案が承認されれば (可決の見通し) 、ニューヨーク市に約500メートルの「慰安婦通り」が誕生する。

 櫻井女史や その他の著名人が、 「従軍慰安婦は 捏造で、そんなことは一切なかった」と言うたびに 反日運動と、慰安婦の証明 が 続けられていく。 「一切なかった」の反証は 簡単で 一人を挙げればすむ。 韓国の場合、 どの程度 国レベルでの 研究・調査がなされているかは 確かな材料を持っていないが、 日本の こういう方々が 出した 「意見広告」が 受け入れられなかったのは、 身勝手の理論 勝手な思い込み ととられる意見だからだろう。

 日本人として、 残念だが、 戦争と言う 「狂気の世界」で、 全くありません、は 通るまい。 人数的に、 十分の一、 百分の一 と こつこつと 説得していくのが 筋ではないだろうか。  -- 以前書いたが、 すでに賠償は終わっている。と主張を繰り返すだけにしておくのが 最良とは思う。--

 勉強不足を 露呈してしまうが、 今回の年表で 旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)が でてきた。 正直、 「もう勘弁して欲しい。」という気持ちであるが、 こういう事件も 次から次への 検証になりうる。 すべてが、 虚構で、 疑惑が晴れていくならいいが、 発生場所が すべて外国である。 そう簡単な事ではあるまい。 ( 参考資料 → 旅順虐殺事件 ) 

 また、 石原元知事のような、 朝鮮、中国蔑視の 風潮は このころから生まれたようだ。 ( WIKI 引用 )

 もっとも世間では、清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられた。なぜなら、歴史的に中国を崇め(あがめ)ても、見下すような感覚がなかったためである。

 明治天皇が 清との戦争を 逡巡(しゅんじゅん)したように、 日清戦争の勃発に 戸惑う 国民も 少なくなかった。 しかし、勝利の報が 次々に届くと、 国内は 大いにわき、 戦勝祝賀会などが 頻繁に行われ、 「帝国万歳」が 流行語になった。

  戦後の 凱旋行事も 盛んであり、 しばらくすると 各地に 記念碑が建てられた。 戦時中、 男児の遊びが 戦争一色となり、 少年雑誌に 戦争情報があふれ、 児童が 清国人に 小石を 投げる事件も 起こった。 コントロールの難しい好戦的愛国主義(排外主義)を危ぶむ為政者もいた。

 反面、清との交戦と その勝利は、 日本人の 中国観に 大きな影響を与え、 中国蔑視の 風潮が 見られるようになった。 新聞と雑誌は、 (開明的な近代国家として日本を礼賛し) 清が 日本よりも 文化的に遅れている、 とのメッセージを 繰りかえし伝えた。 戦場からの手紙に 多様な中国観が 書き記されていたにもかかわらず、 戦後、 多くの人々の 記憶に残ったのは、 一面的で 差別的な 中国観であった。          (引用終り)

            またまた、 長文にお付き合いいただいた。大変ありがとうございます。

 できるだけ 公平な目で見て、 日清戦争、下関条約と 検証してみたいと 考えていました。 ここまで来て ふと 心に思うことは、 理由は 色々あろうが (ロシアの南下対策、満州進出の足掛り) 、 日本は朝鮮に対して、クーデターの支援を含め、 何度も 「手出し」している。 清より 朝鮮のほうに 印象が残る年表であった。 結論的に 尖閣問題で 日本有利は出なかったが、 不利も 内容に思う。

 どちらのものかを争うより、 しばらく 冷却期間 (棚上げ) をおくか、 共同開発とするか、 その程度しか 手はないのではないだろうか。 「寄らば切るぞ」で 片付くなら 簡単な事だが ……


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