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アメリカ 国家安全保障通信社 論説  「日本の原子力発電は核大国になるための方便、 宇宙開発も 長距離ミサイルの技術取得のためだ」   日本の核兵器計画の歴史。--前--

  United States Circumvented Laws To Help Japan
          Accumulate Tons of Plutonium


  国家安全保障通信社(National Security News Service: NSNS)   Joseph Trento  2012年4月9日

 日本が核兵器の配備を自粛し、アメリカの核の傘の下にとどまっている間にも、中国とインド、パキスタンを合わせたより大量の核兵器システムを作るのに十分な核物質を蓄積できるように、日本は電力会社を隠れ蓑として使っていたことが、NSNSの調査で分かった。

 アメリカ合衆国によるこの意図的な核拡散は、従来の核兵器保有国が条約や国際法に反して核拡散に加担しているという、イランのような国による主張に油を注いでいる。アメリカ合衆国とともに、ロシア、フランス、イギリスは、世界中で核兵器工場から民間原子力産業を作り、それらを国有あるいは国の補助を受けた産業にした。イスラエルは、日本と同様に大口の顧客であると共に、こちらも日本と同様、1960年代から核兵器製造能力を有している。

     Fukushima_第一 全貌      Fukushima_第一 爆発
      福島第一原発の 爆発の様子は、 ほとんど削除され 国民は 検証のために見ることすら出来ない。

 一年前、自然災害と人災が組み合わさって日本北部で多くの人が犠牲になり、3千万都市の東京が居住不能になる寸前となった。日本の近代史には核災害が何度も爪痕を残している。日本は核兵器で攻撃された世界で唯一の国である。2011年3月に津波が襲来した後、福島第一原子力発電所での水素爆発とそれに続く原子炉3基のメルトダウンで、地域全体に放射能がまき散らされた。広島と長崎に投下された爆弾と同じように、日本は何世代にもわたってその影響と向き合っていかねばならない。原発の20キロ圏内は居住不能と見なされている。ここは国家の犠牲となった地区である。

 日本がどのように核の悪夢に至ったかは、NSNSが1991年から調査しているテーマである。日本の原子力計画には二重の目的があったことを我々NSNSは知った。表向きは日本に無限のエネルギー源を開発し供給するというものであった。しかしこれには裏があって、日本が十分な核物質と核技術を蓄積し、短期間で核兵器大国になることを可能にする、非公認の核兵器計画だった。

 この秘密の活動は、原子力計画の裏に隠される一方、地震と津波が福島第一原発を襲った2011年3月11日の時点で、70トンのプルトニウムを蓄積してきた。民間原子力を秘密の原爆計画を隠すために利用したのと同じように、日本は平和的宇宙探査計画を、高性能の核兵器運搬手段を開発するための隠れ蓑にした。

 原子力が生活の中に入ってくることを日本国民に納得させる唯一の方法は、歴代の政府と産業が一切の軍事利用を隠しておくことであると、日本の政治指導者たちは理解していた。この理由により、日本の歴代政府は結託して、原爆計画を無害なエネルギー計画と民間宇宙計画で偽装してきた。言うまでもなく、1941年に日本は将来のエネルギーを確保するため戦争を始めたのに、皮肉なことに核兵器で攻撃された唯一の国になっただけだった。

 中国、北朝鮮、インド、パキスタンが核兵器を開発したとき、日本と西側同盟諸国は、芽生えつつある脅威に対処するため結束を強めた。1960年代に行われたアメリカ大統領リンドン・ジョンソンと日本の佐藤栄作首相、その後何代かの日米指導者たちが参加した秘密会談の後、核技術を秘密裏に移転することは、いっそう激化しつつあった東アジアの軍拡競争に対抗して、日本を強化する国際戦略の一環であった。この政策は、レーガン政権がアメリカの政策を劇的に変化させた法律を制定したことで頂点に達した。アメリカ合衆国は、日本に送られるアメリカ起源の核物質に対するほぼ全ての規制を放棄した。

 日本政府は、広く知られている日本人の核兵器に対する憎悪を、メディアや歴史学者に政府の核兵器活動を詮索させないために利用した。これは世界と人民に対する損害だった。その結果、2011年3月の惨事に至るまで、日本の原子力産業はほとんど批判の目に曝されることがなかった。およそ徹底しているとは言い難い国際原子力機関(IAEA)もまた、世界的な核拡散の監視機関であるにもかかわらず、見て見ぬふりをしてきた。

 我々NSNSの調査は、何十年にもわたって最高機密であり続けてきた日本の原子力産業を垣間見て、日本と西側諸国の核政策とこの政策を冷戦下とその後の世界で形成した官僚たちに関して、重大な問題を提起する。国際企業と官僚たちは、この欺瞞を遂行するために、国民の安全と国家安全保障を犠牲にした。平和的原子力計画の隠れ蓑の下で、かれらは巨大な利益を上げた。

  仁科芳雄博士   佐藤首相とジョンソン大統領
  日本の原爆の第一人者 仁科芳雄     日本政府と官僚は 一般国民をだまし続けて 核兵器計画を続けた。

 1940年以降、日本人は核分裂連鎖反応の科学を積極的に研究してきた。仁科芳雄博士は、彼の戦前の原子核物理の研究に対してノーベル賞に推薦されていた。このとき彼と若い科学者のチームは理化学研究所(理研)で、アメリカ人を原子爆弾で倒すため精力的に研究していた。

1943年の時点で、日本版のマンハッタン計画は原爆級ウランを分離できるサイクロトロンを作り出しただけでなく、原子の知られざる力を解き放つ知識を持った核科学者のチームをも生み出した。そのころ日本人は爆弾を作るのに十分な原料ウランを求めて帝国中を探し回ったが、成果はほとんど無かった。

 日本はナチス・ドイツに助けを求めた。ナチスもまた原子爆弾を追い求めていた。

1945年初頭の時点で連合国はライン川に到達しロシアはプロイセン地方を占領していた。窮余の一策として、ヒトラーは1200ポンド(544 kg)のウランを載せたUボートを日本に派遣した。この潜水艦が到着することはなかった。1945年5月にアメリカの軍艦がこれを拿捕した。

潜水艦に乗船していた2名の日本人士官は自殺し、積み荷のウランはテネシー州オークリッジに運ばれ、アメリカのマンハッタン計画のために使われた。

B-29爆撃機の編隊が東京や他の大都市に焼夷弾の雨を降らせた。仁科は研究所を現在の北朝鮮にある興南(フンナム)という小さな村に移さざるを得なかった。

1945年8月6日、エノラ・ゲイが1発の原子爆弾を広島上空で投下した。その爆発は7万の人々を即座に死に至らしめ、その後数日から数週間でさらに数千人が亡くなった。

 仁科に爆発の知らせが伝えられたとき、彼は直ちにアメリカ人にノーベル賞を奪われたことを悟った。しかし仁科は、彼自身の原子爆弾もまた成功するという暗黙の確証を得た。仁科と彼のチームは原爆実験の準備を整えるべく精力的に働いた。ロバート・ウィルコックスのような歴史学者や、アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション紙の記者であるデヴィッド・スネルは、仁科のチームが核実験に成功したと確信している。

1945年8月12日、長崎原爆投下の3日後、日本がポツダム宣言受諾を発表する3日前、日本は興南で原爆を実験し、部分的な成功を収めたと、ウィルコックスは書いている。そのときまでは、仁科の研究は象徴的なものに過ぎなかった。ただ日本には、これに続く爆弾を生産する手段と、アメリカ合衆国へ正確に運搬する手段が欠けていた。

第二次大戦が終わったとき、何千人ものアメリカの兵士が日本を占領した。日本への核攻撃の後、アメリカ合衆国は核の力を作り出す欲求と能力が世界中に広がって行くことを恐れた。ワシントンがこのとき知ったのは、日本が自力で原子爆弾を作るところまで、以前に考えられていたよりずっと接近していたということだった。日本の核兵器製造能力を破壊することは優先事項になった。国際的な核不拡散を合意する交渉の他にも、アメリカの占領軍はサイクロトロンなどの日本の原子爆弾計画の痕跡を破壊し、日本が核兵器計画を再開できないようにした。

 日本が戦後復興を遂げているとき、広島と長崎への原子爆弾投下は、日本人に対するアメリカの非人道性と並んで、日本の帝国主義がもたらした愚挙を象徴するものとなっていた。日本人は核兵器を憎悪した。日本の指導者たちはこの見方に同意したが、核攻撃を受けた側だったことから、原爆の戦略的価値への特別な評価も生まれてきた。

 日本の降伏で、アメリカ合衆国は太平洋での卓越した勢力となった。しかし、1949年に中国で共産党が勝利し、ソビエト連邦による核実験が成功すると、アメリカの地位は脅かされた。共産主義国は太平洋でアメリカに挑戦し、日本は突如として、敗れた敵国から価値ある同盟国へと転じることになった。

 北朝鮮軍が1952年に南へ押し寄せてきたとき、アメリカは全く不意を突かれた。間もなく、軍備と訓練が不十分なアメリカ海兵隊は釜山で包囲され海まで追い詰められた。このとき初めてアメリカ軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は、トルーマン大統領に核兵器の使用を進言し、これは朝鮮戦争の間に何度も繰り返された。

 その核兵器は日本の沖縄に貯蔵された。アメリカ軍が釜山で全滅の危機に瀕しているとき、アメリカのB-29は中国と朝鮮半島の目標を爆撃するためエンジンを回して待機していた。その後の朝鮮戦争で、中国軍が朝鮮半島に侵攻したとき、日本から飛んだ核兵器搭載の爆撃機が実際に中国と北朝鮮の空域に侵入した。ジェット戦闘爆撃機が1機撃墜された。

 1950年代の初頭、アメリカ合衆国は、日本が原子力ビジネスに加わるよう積極的に促していた。核エネルギーの破壊力を目撃したアイゼンハワー大統領は、それを厳しい管理の下に置くことを心に決めていた。核分裂の技術をアメリカが完全に独占することを世界は容認しないであろうことも、彼は認識していたので、彼は代替案を提示した。「平和のための原子力」である。

 戦争での経験から、日本は原子力産業をゼロから作る準備をしてきたが、「平和のための原子力」の助けを借りれば、完成した原子炉を西側諸国から輸入する方が安く上がった。

アメリカと並んでイギリスとカナダの核技術も輸出の対象になった。イギリスが先行し、マグノックス炉を日本に販売した。GEとウェスティングハウスは急速に残りの業界を押さえ、原子炉の設計図と部品を日本に途方もない値段で売った。

 原子力産業が活性化されると、日本はアメリカ合衆国から独立した自前の原子核研究に戻った。アメリカ人に鼓舞されて、1956年に日本の官僚たちは完全な核燃料サイクルを利用する計画を描いた。

日本の中央官僚と計画立案者たちは同様に熱心だった。増殖炉計画は、日本がアメリカ合衆国から輸入したウラン原料の最も効率的な利用を可能にする。これがあれば、日本がアメリカ産エネルギーへの依存から脱却し、最も強力で入手が困難な爆弾材料であるプルトニウムの膨大な備蓄を作り出すこともできる。

 1964年の10月に、中国共産党は初の原子爆弾を起爆させて世界を驚愕させた。世界は驚きにとらわれたが、日本ほど強い感情が巻き起こった国は他になかった。3ヶ月後、日本の佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン大統領との秘密会談のためにワシントンに行った。

佐藤はジョンソン大統領に思いもよらない最後通牒を伝えた。もしアメリカ合衆国が核攻撃に対する日本の安全を保障しないなら、日本は核兵器システムを開発する。この最後通牒で、ジョンソン大統領は日本にかざしたアメリカの「核の傘」を拡大させることを余儀なくされた。

 皮肉にもこの保証は、後に佐藤が、核兵器を持たず、作らず、日本の領土に持ち込ませないという非核三原則を打ち立てることを可能にした。この政策により佐藤はノーベル賞平和賞を授与された。日本人と世界中の人々には、この三原則がけっして完全に実施されることはなかったとは知る由もなく、佐藤は秘密の核兵器計画を進めさせた。

 その後の数年で、何千発ものアメリカの核兵器が日本の港と在日米軍基地を通過していった。佐藤のジョンソン大統領との歴史的会談の前でさえ、アメリカの核兵器が日本に貯蔵されることを日本は公式には無視することに、密かに同意した。日本政府の官僚は一切を紙に書き記さなかったという点で抜け目がなかった。

 機密が解除されたアメリカ政府文書を見れば、非核三原則は嘲笑の的である。これらの文書は、アメリカ合衆国が日常的に核兵器を日本の港に持ち込んでいた証拠を、日本政府高官が無視したことを明らかにした。

 日本はアメリカ軍が核兵器の使用を模擬する合同軍事演習に参加しさえもした。暴露された内容は、日本政府の表向きの政策と核兵器に関する行動の間の分裂を、はっきりと示している。             ( 前半 終わり )

 お正月で 少し お時間に 余裕おありではないかと アメリカの 国家安全保障通信社が 出した 「日本の原子力政策」に関する 論文を 載せてみた。 これを読んで いかに 政府が 「国民の目に触れないように」 原子力政策を実施してきたか、「日米両軍」が 表面上よりも 深いつながりを持ち、核兵器政策においても、密接な連携をしているか、 こういうことを考えると、 原発の廃止が 単なる エネルギー問題では すまないことが よく分かる。 原発反対運動も そういう点まで考えて 行わなければ、 成功しないだろう。
 
 時の政権が どのように考えようと、 日米の 官僚組織が がっちりとスクラムを組んでいるので、 これを突き崩すことは 至難の業だろう。 国民が 対米独立、 憲法改正反対、 国軍化反対 くらいの 気持ちを持ったときが、 「最初の一歩」 といえよう。



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