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ポツダム宣言に 言及しだした 中国の主張は 打ち破れるのか。  菅官房長官の 「歴史はしっかり 勉強している」は 大丈夫なのか。

 日本国内にいると、 「尖閣諸島の領有」 「慰安婦問題」 「竹島の領有」などの 論争で、 日本が負けることは 考えられない 雰囲気である。 はたして これからの結果は どうなるのだろう。 私は 日本の分が悪い と 思っている。

 こういう 世論を引っ張ってきた 「櫻井よしこ氏」にしても、 ポツダム宣言は 「無条件降伏ではない」と 主張している。 いまや、 そういう 論調の方が 多いのかもしれない。 彼らの主張を聞くと、「ポツダム宣言の 日本語訳の 字面」だけを、 追っているに過ぎない。 そうしないと、 彼らの主張は成り立たないが、 歴史には 「その前後」が 必ずある。 ヤルタ会談、 カイロ宣言など 総合して考えるべきだろう。

 カイロ宣言に関しては、 書いたことがあるので、 「ヤルタ会談」について、 少し 調べてみよう。

 当時 「スターリン」は、 ドイツとの戦争は 攻めてきたのだから 国民も納得できるが、 なんら 問題のない 日本との戦争は 国民を説得できない、と アメリカの 「ルーズベルト大統領」に いっている。

                                (米国外交文書、一九四五年、七百六十八-七百六十九頁)
「スターリン元帥は、 これらの条件が満たされない場合、 自分と モロトフにとり、 なぜ ロシアが 対日戦争に参加しなければならないのか ソヴィエト国民に 説明するのが困難となるのは明らか である旨述べた。 彼らは、 ソ連邦の存在そのものを脅かした ドイツに対する戦争は 明確に理解したが、 何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手に なぜ ロシアが戦争に入るのか 理解しないであろう。 他方、 彼は、 もし政治的諸条件が満たされれば、 国民は 右に関わる国益を理解し、 かかる決定を 最高会議に説明することも 格段に容易となろう、 と述べた。 」

大統領は、 右会談に関する報告は受領しており、 自分は 終戦に際し 樺太の南半分と クリル諸島が ロシア側に引渡されることに 何の問題もないであろうと思う旨 述べた。                      (部分引用 終り)

 そして、 次のような 「ヤルタ協定」が 結ばれた。 ここで、 中国に対する ソヴィエトの要求は 蒋介石大元帥の同意を 必要としているのに対し、 日本への要求は 日本の意思に関係なく 確実に満たされるべきことを合意 している。 こういう状態になった国を 世界では 「無条件降伏」と言い 決して 「条件付停戦」などとは 言わないのである。 私は そう思う。


                           〇  ヤ  ル  タ  協  定
 「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は、ソヴィエト連邦が、ドイツが降伏し、かつ、欧州における戦争が終了した後二箇月又は三箇月で、次のことを条件として、連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。

一 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること。

二 千九百四年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利が次のとおり回復されること。

(a)樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソヴィエト連邦に返還されること

(b)大連港が国際化され、同港におけるソヴィエト連邦の優先的利益が擁護され、かつ、ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権が回復されること。

(c)東支鉄道及び大連への出口を提供する南満州鉄道が中ソ合同会社の設立により共同で運営されること。ただし、ソヴィエト連邦の優先的利益が擁護されること及び中国が満州における完全な主権を保持することが了解される。

三 千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。

 前記の外蒙古並びに港及び鉄道に関する協定は、蒋介石大元帥の同意を必要とするものとする。大統領は、この同意を得るため、スターリン大元帥の勧告に基づき措置を執るものとする。

三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。」

 連合国側が 日本敗戦の折に、 対日参戦の 代償として ロシアに 千島列島を 「引き渡す」ことを定めた協定である。 日本固有の領土か否かは、 問題ではないことに 注目して欲しい。 多分、 私の年代の世代は、 学校で 「北方領土」なるものを 習っていない。 長年の 日ソ交渉の中で 返還を希望したのであろう。 突然 「言われだした」ように 感じている。

 ヤルタ協定は、 カイロ宣言と違って、 ポツダム宣言に 書かれていないので これに縛られる必要はないのだが、 ポツダム宣言には 日本の領土は 4つの島と 「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限」と書かれているので、 日本固有の領土か否かで 論争になることはない。 対等な、 交渉によって決まる 協定や 条約だと言う 主張が いかに 現実を見ていないのか、 わかろう。

参考 → (第8項)  「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
                                                       時事通信 5月26日(日)
 【北京時事】 ドイツ訪問中の 中国の李克強首相は 26日、 1945年7~8月に 第2次大戦の戦後処理を協議した ポツダム会談の行われた ベルリン郊外ツェツィリエンホフ宮殿を訪問し、 歴史認識問題や 沖縄県 ・ 尖閣諸島(中国名・釣魚島)に対する 日本の対応を念頭に 「 戦後の 平和秩序を維持すべきであり、 (連合国による) 戦勝の結果を 破壊 ・ 否定することは 許されない 」 と強調した。 中国の通信社 ・ 中国新聞社が伝えた。

 特に 歴史認識に関して 「 あのファシズム侵略の歴史を 否定 または美化しようとする、 いかなる言行も、 正義の力、 平和を愛する 中国や世界の人民に 受け入れられない 」 と指摘。 日本を名指ししていないが 「 侵略の定義は定まっていない 」 と発言した 安倍晋三首相や、 靖国神社を参拝した 国会議員らを非難したものだ。
                                                               (引用終り)

 日本の主張は、 サンフランシスコ平和条約を 根拠にするが、 ロシアも 中国も 署名していない。 中国は 呼ばれもしていないので、 それに拘束されない と言う主張は 一応 論理が通っている。 だから、 両国とも、 ポツダム宣言だけに 拘束されるのである。 いま、 ロシアとの関係は 悪くはないようだが、 ロシアが 「中国と手を組む」ならば、 そして、 こういう 国際文書を持ち出すならば、 日本は一層 不利な立場に追い込まれるだろう。

 アメリカが 決して 尖閣諸島は 日本の領土である、と 言明してくれないのも、 こんな事が 原因だろう。 日本が 隣国ともめる原因は 「故意か否か」 は 別にして、 アメリカが作ったものだ。 

 「自虐史観」などと 主張して、 今の歴史教育を 批判するものが多いが、 少なくとも 義務教育で 「下関条約」を含む 近代史を もっと 具体的に教えておかねばならない。 この辺のところを どのように 学校で教えているか、 元 小中学の社会 の 教師をしておられた方のブログから 引用してみよう。 多分、 皆さんも この程度しか 習っていないと思う。

                                       小6・中学社会 学校でまなびたい歴史 さん 引用 

2 日清戦争

 『朝鮮にも変化が来ました。 日本と協力して 李王朝を倒し 朝鮮の明治維新をやろうという独立派と、 中国派が 争うようになりました。 東学党の乱 (注 甲午農民戦争ともいう) という 朝鮮王朝への反乱が起きたとき、 中国は軍隊を朝鮮に送りました。 それを見た 日本も 朝鮮に軍隊を送り、 戦争になりました。 これを 日清戦争 といいます。 日清戦争は、 わが国を ロシアの侵略から守るために 朝鮮を独立させることが不可欠だったことから 起こったのです』


◆板書:日清戦争(明治27年・1894年)

◆アメリカにいた松岡洋右(14歳)のエピソード

「 日清戦争が始まると、 ほとんどのアメリカ人は 中国は知っていても 日本は知らないので こう言いました。 「大国シナには 日本という県があって、 それが 政府に反乱を起こしたらしい。 また、 日本を知っている人も 「こんな小国が シナを相手に戦うなんて 無茶だ。 かわいそうに、 いまにきっとひどい目にあうぞ」 」


『当時、 清国は 眠れる獅子といわれた大国です。 アジア最大の軍事力を 持っていました。 日本は それにようやく 追いつこうとしていました。 厳しい戦いになるはずでした。 しかし、 日本はすべての政党、 国民が 戦争を支持しました。 国家予算の2年半分の費用と 10万人の兵隊を投入しました。 全力を挙げて戦わなければ、 西洋にやられる前に、 シナにやられてしまう と考えたからです。 その結果、 陸の戦いも海の戦いも、 日本の圧倒的な勝利に終わりました。 それは、 世界中が 「アジアに日本あり」 と知った日になりました。』

              ◆板書:国民のまとまりと愛国心、日本国民軍VS清王朝の傭兵


3 下関条約

『戦争は 日本の圧倒的な勝利に終わり、 下関で 講和会議が開かれました。 日本の全権大使は 伊藤博文、 外交官は陸奥宗光 でした。 そこで結ばれたのが 下関講和条約といいます。 講和条約とは 平和条約のことで、 ふつう戦争は戦った両国が この条約を結んで終わります。 条約が結ばれたら、 もう 戦争中のことでは 絶対に争わないというのが ルールでした。』

 条約には 次の3つがかかれましたが、 条約の第一条には、 日本がこの戦争に勝って 一番重要だと考えたことが 書かれていました。 それは次のうちどれでしょうか?

■板書「下関条約」

 A:朝鮮を完全な独立国とする。
 B:台湾・遼東半島を日本の領土とする。
 C:賠償金(日本国家予算の4年分)                      ◆正解はAでした。

 【説明】 ところが、 この条約を知ったロシアは、 ドイツと フランスを味方にして 日本に 強い要求を突きつけました。

「 遼東半島を 清に返せ。 さもなければ戦争だ 」(三国干渉)  国民は、 伊藤博文は、 この要求に対して、 どんな決断をしたでしょうか?

       国民       (A:要求を受け入れる・B:拒否する)
       伊藤博文・陸奥宗光(A:要求を受け入れる・B:拒否する)

             ◆国民世論は 断固拒否して 西洋と戦おう と わきあがりました。

 伊藤博文や 陸奥宗光は、 いまロシアと戦えば 国が滅びるしかない、 国民よ 我慢してくれと言い、 遼東半島を 清国に返しました。

 『 清の 弱さが 明らかになり、 西洋列強は ハイエナのように 清に進出していった。 3年後、 ロシアは 遼東半島を清からうばいました。 そこに軍隊を駐留させ、 支配したのです。 せっかく独立させた 朝鮮は ロシアに支配される可能性が大きくなりました。 日本の厳しい状況が続きます。 「 結局は 力が正義なのか 」 という気持ちが 国民に広がり、 臥薪嘗胆 という言葉が 国民の合い言葉になりました。 今に見ていろ つらい思いをがまんしても、 日本を ロシアに負けない強い国にするぞ、 という意味です。』

            ◆板書:戦争の結果:清に西洋が進出、遼東半島はロシアのものになった。      (引用終り)

 下関条約で 必死に暗記させられたのは、 その結果として、「遼東半島や 台湾 (澎湖諸島含む) を領土にしたこと。」「3億円の賠償金を得て、 それを基に 八幡製鉄所を造ったこと」 「その後、 三国干渉により、 遼東半島を返還したこと  (ロシアとの関係悪化が 日露戦争に通じる) 」 ということだろう。

 相手国の 「歴史教育」は 「捏造だ、反日だ」と非難するが、 これらの中で 全くかかれていない視点がある。 1894年 7月 から 1895年 3月 の 9ヶ月に満たない 戦争であり、 説は いくつかあるが、戦死・戦傷死1,567名 程度の 戦争である。 当時の 国際常識からいって、 この下関条約自体が 過剰な要求をしているのではないか、 という点である。

 ロシアとの関係が悪化して、 「根室」に ロシアが攻め込み、 その時点で 「講和条約」を 結んだとする。 台湾の 割譲の要求は、その講和条約で 根室半島の割譲はともかく まだ 戦闘にもなっていない 『沖縄』の割譲を求めた 様なものだ。 当時の感覚でも 相当 「横暴な要求」ではなかったのか。

 根室半島   日清戦争

 テレビで 「金美麗」なる 台湾の オバさんが 日本の台湾統治が いかに素晴らしかったか、 日本人は 靖国神社に 参るべきだなどと、 声を張り上げているが、-- こういう 植民地政策では、 必ず 一部の現地人が優遇され、 親日派を形成するような 政策を取る。 -- 一般の 台湾人は どうだったのだろう。 下関講和条約 締結直後の 5月30日までの 日本軍の損害は、2647名であり、その後の 台湾作戦終了までの 戦争の全期間(1894年7月25日~翌95年11月30日)の1万3488名の約2割にすぎなかった事を見ても、 そういう疑念を 持ってしまう。

 賠償金の額にしても、 「ちょっと 多い」 程度なのか、 法外なのか、 当時の 国際常識で どうなのか、 問題であろう。 特に この賠償金の支払いにより、 国内が乱れ、 清国の没落を決定付けたことは 教えておく必要があるのではないだろうか。 日本の国家予算の 4年分、 今で考えると 400兆円程度は 9ヶ月程度の 戦争での 賠償金として 妥当か、 やや 多い程度で済むのだろうか。

 例に出した 「授業案」と同様、 私も  清の 弱さが 明らかになり、 西洋列強は ハイエナのように 清に進出していった。 と 覚えていたが、 実は、 賠償金の支払いのため、 外国からの借金の担保として、 租税収入を差し出したが故 (ゆえ) 相手国につけ込まれて 衰退した、というのが 史実らしい。

李鴻章道   日清戦争講和記念館
全権大使 「李鴻章」が 危難を避けるために通ったといわれる道   この道の先に 日清戦争講和記念館がある。 

                                          日銀下関支店長 岩下直行 の文より 引用
 116年前の1895年3月24日、 春帆楼で交渉を終えた 清国全権大使、李鴻章(りこうしょう)が 輿(こし) に 乗って 宿舎である 引接寺に戻ろうとしたときに、 その門前で、 群馬県出身の 小山豊太郎という男に銃撃される という事件が発生した。 弾丸は 李鴻章の左目の下に命中し、 顔面にめり込んだ。 撃たれた李鴻章は 引接寺に逃げ込んだ。

 講和交渉に訪れた 使節団の代表が 銃撃されてしまったのだから、 大変な不祥事である 。国際的な非難が  日本に集まり、 その後の講和交渉でも 日本側が 譲歩を余儀なくされたという。

 李鴻章は 半月ほど療養し、 顔面に残った弾丸を 摘出しないまま、 4月10日には 講和交渉が再開された。  李鴻章一行は、 再度の襲撃を避けるために、 山沿いの細い道を利用して 春帆楼に通った。 この裏道が今も残る 「李鴻章道」 である。 交渉は順調に進み、 4月17日、 下関条約が調印され、 李鴻章は下関を離れた。
                                                              (引用終り)

陸奥宗光が後に記した『蹇々録』によれば、

 1894年11月上旬から 米、英、露が 調停のための斡旋を開始する。 しかし12月4日、 伊藤博文内閣は 「威海衛を衝き 台湾を略すべき方略」 を 大本営に提出。 実際に 台湾を占領しなければ、 世論に応え、 台湾の譲与を 和平条約の要件として盛り込むことはできない と確認した。 とあるから、 日清戦争の目的は 台湾の割譲なのである。 

 「皇国史観のブログ」に書いてあるような、(第一条)  清国は、朝鮮国が 完全無欠なる独立自主の国であることを 確認し、 独立自主を損害するような 朝鮮国から清国に対する 貢・献上・典礼等は 永遠に廃止する。   ために 日本が その財政の大半をつぎ込み、 自国の兵士の命を犠牲にして 朝鮮を独立国にしてやったのではないことは、 明らかだろう。

 もちろん 李鴻章が 「日本と清国は 朝鮮の独立を確認し」 とするように求めたのに対し、 日本は 拒否した。 この 第一条は 表向き、 建前だけだという事を、 世界の人々は 容易に見抜くだろう。 -- 見抜けないのは 日本人の中の 一部の人だけだ。 --

 この狙撃事件の結果、 日本が 「大幅 譲歩」 したように 書かれているが、 そうしなかった (譲歩しなかった) ことが  問題を複雑にしている。 当初 日本政府は、 『蹇々録』にもあるように、 ずるずると 交渉を先延ばしして、 台湾占領後に 妥結するつもりでいた。 しかし、 狙撃事件で 列強の 干渉を 恐れるようになり、 停戦条約を 結んでしまう。 -- ここでも、 台湾の植民地化 を 夢見ていたので、 休戦地域に 台湾を含めない、 などと 主張した。 --  (参考  wiki 引用)

 3月28日、 日本側は 休戦条約の草案を清側に提示するが、 「台湾、 澎湖列島 およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」 などという文面を 清側が訂正を求める。 日本側は 「日清両帝国政府は 盛京省、 直隷省、 山東省地方に在て 下に記する所の條項に従ひ 両国海陸軍の休戦を約す」 という文面に変更し、 3月30日休戦定約が締結される。
日清戦争 下関条約 菅官房長官
       教科書でよく見る 下関条約 講和会議風景      歴史はしっかり勉強している と言う 菅官房長官  

 菅義偉官房長官が、 中国の 王毅外相が 尖閣諸島をめぐり、 ポツダム宣言の規定を引用し、 菅氏に 「もう一度、(歴史を)まじめに学んだらどうか」  と領有権を主張したことに反論した。  菅氏は 「尖閣諸島はポツダム宣言以前から 日本の領土。 私は 歴史をしっかり勉強して 発言している 」 と述べ、 強い不快感を示した。 「(中国側の発言は)全く歴史を無視した発言だ。 さかのぼると、(1895年の)日清講和条約締結以前から、尖閣はわが国固有の領土だった」と強調した。

 日中両国とも いかに 「歴史を学んでも」 そこに 敢えて書かれていない部分がある。 中国要人の 「歴史観」も おかしいかも知れぬが、 日本も 同様に 触れていない部分 (世界から見ておかしい部分) がある。

なお、尖閣諸島については、日本外務省によれば、清国の支配が及んでいないことを確認の上、1895年(明治28年)1月14日に、当時無人島であった同列島に標杭を建設して日本領土に編入することを閣議決定したという。(外務省「尖閣諸島の領有権についての基本見解」) -- 日清戦争の 真っ盛りである。 --   日清戦争や 日清講和条約とは関係ないもの としている。 世界は 日本の主張に 同調するだろうか。

                                            未掃庵の「ものぐさ歴史研究」さん 引用

氷川清話(勝海舟 の話)に日本の外交について「それだから、百年の長計などといっても、とても駄目だ。あの人たちのする仕事は、十年はおろか、たった一年さきのことさえも、見透しがつかないではないか。」というところがある。 「朝鮮とか、シナとか、ロシアとか、英国とかいって、」「その貧富強弱によって」相手国への対応に差等を設ける考え方が間違っている。

 「ロシアとか 英国が相手だったら 要求できないようなことを 朝鮮や 清国には 要求している」というところに、 当時の 日本外交の根本的誤りが あった という主張と理解することができる。                 (引用終り)

 長くなりすぎたので、 この辺で一旦終了するしかないが、 現在行われている 「日本の主張」は、 経済力 世界第3位という力と アメリカの後ろ盾がなければ、 本当は 「覚束 (おぼつか) ないもの」だという事を 頭の片隅においておいたほうが 良さそうである。


                               


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