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安重根(アン・ジュングン)の石碑が ハルビンに設置されるののか。 2日間 7時間に及ぶ 中韓首脳会議。   安重根の逮捕時から 日本側にも 理解者がいたことは もっと 日本人は知っておくべきだ。

 日本に 左翼はいなくなった、という ドイツの見方を 昨日は紹介した。 よその国から見ると 随分 国内での見方と違うものだと思う。 日本では 官僚が 「左翼の クソどもから 罵声を … 」と書くくらい、 左翼は 存在すると 思っている。 何のことは無い、 「反原発」や 「反戦」は どうも 左翼らしい。

                                                        Record China 7月1日(月) 

2013年6月28日、中国を訪問中の韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は、習近平(シー・ジンピン)国家主席と昼食をともにした際、1909年にハルビンで伊藤博文を暗殺した朝鮮の独立運動家、安重根(アン・ジュングン)の石碑をハルビンに設置することに協力を要請した。この安重根について、中国メディア・網易歴史は以下のように伝えている。

 1909年10月26日、「伊藤博文がハルビン駅にて朝鮮人の凶弾に倒れる」との一報が全世界を揺るがした。当時、枢密院議長で初代韓国統監を務めていた伊藤博文は、現在の黒竜江省にあるハルビン駅で安重根に狙撃され死亡した。

 日本の新聞や朝鮮の親日派新聞は安を「暴徒」「無知蒙昧(むちもうまい)の徒」と罵ったが、フランスを代表する西側諸国や朝鮮の多くの新聞は客観的立場でこの事件を報道。中国とロシアの新聞は安を「愛国志士」「平和の代表者」とたたえた。

 安重根が殉死すると、孫文(孫中山)ら中国各界の名士はこぞって詩を詠み、彼を「亜洲第一義侠」と称賛。周恩来はかつて「中国と朝鮮の抗日運動は安重根の伊藤博文射殺事件から始まった」と話している。

 また蒋介石は72年に韓国の安重根義士記念館に対し「忠烈千秋」の題字を贈った。50年代の中国の小学校の教科書にも安重根に関する記述が掲載されている。北朝鮮は79年に安重根生誕100周年を記念して、映画「安重根、伊藤博文を撃つ」を製作した。

 韓国や北朝鮮、中国のハルビンや安が投獄されていた旅順、亡命先のロシア、日本など、各地に安重根の記念館や記念碑が建てられているが、彼の遺骨は当時の日本政府が秘密裏に埋葬したため、今日までも行方不明のままだ。
                                                                    (引用終り)

 過去に 韓国は安重根の銅像を ハルピンに立てたことがあった。 その際、中国政府は 「外国人による 銅像建設は 認められない」として、 撤去した。 また、 ハルピン駅近くの 公園での 「記念式典」も 不許可にした。 ある意味 日本に配慮した 決定を行ってきた。

 ところが 「石原元知事」が 起こした騒動で、 日本の総理も、外務省も 「尖閣列島棚上げ論」など、 合意した事実も、 そんな話も無かったと 答弁しだした。 以前にも 書いたように、 今 65歳以上程度で いくらか 政治に関心のあった方なら 常識として あったことは知っているはずである。 それが 「良いか、 悪いか」は 別問題として、 中国と (時の 周恩来首相と) そのような話が なされていた。 これを曲げることは、 修正主義以外の 何者でもない。

 こういう 日本側の 「変化」があった以上 今回も 今まで同様、 日本に配慮するかどうか わからない。 中央日報 (韓国) が 伝えるところによると 

朴大統領と習主席は前日の夕食会とこの日の昼食会を含め、2日間に7時間30分ほど会った。習主席はこの席で、「両国に新政権が発足した後、朴大統領の今回の訪中が大きな成果を生み、希望に満ちた将来を提示し、お互いの理解を深めることで、よいスタートとなった」とし「今回の訪問が今後、大きな影響を及ぼすだろう」と述べた。続いて「中国に朴大統領の熱烈なファンが多く、テレビで連日、朴大統領のニュースを伝えている。特に女性と若者に深い印象を与えている」とし「朴大統領と緊密に協力し、在任期間中に韓中関係が新しい段階に進めるようにしよう」と話した。 (引用終り)  なのだそうだ。


 この 棚上げ論があった事を 同意した 「鳩山氏」や「野中氏」のことを 「唖然とした」「言う言葉も無い」などと 反応する 政府、外務省の方が おかしい。 日本で最も発行部数の多いとされる、「読売新聞」ですら、 この件は (当時) 認めている。 今回は 画像付きで もう一度書いておこう。   
                                                    読売新聞・社説 1979年5月31日
尖閣諸島の領有権問題は、一九七二年の国交正常化の時も、昨年夏の日中平和友好条約の調印の際にも問題になったが、いわゆる「触れないでおこう」方式で処理されてきた。

つまり、日中双方とも領土主権を主張し、現実に論争が“存在”することを認めながら、この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた。

それは共同声明や条約上の文書にはなっていないが、政府対政府のれっきとした“約束ごと”であることは間違いない。約束した以上は、これを順守するのが筋道である。

鄧小平首相は、日中条約の批准書交換のため来日した際にも、尖閣諸島は「後の世代の知恵にゆだねよう」と言った。 
              棚上げ論 読売新聞社説

日本としても、領有権をあくまで主張しながら、時間をかけてじっくり中国の理解と承認を求めて行く姿勢が必要だと思う。

園田外相は「中国が黙っているのは友情であり、わが国は刺激的、宣伝的な行動を慎むべきだ」と国会で答弁した。

尖閣諸島の周辺海域では、いずれ遠くない時期に海底資源を調査開発しなければならなくなる。“小さな岩”で争うよりも、こうした遠大な事業で日中両国が協力する方向に、双方のふん囲気を高めて行くことが大事だ。もしこれが成功すれば、とかくこじれがちな領土紛争に、よき解決の先例を国際的にもつくることになる。」             (引用終り)

 さて、 銅像建設の話が出ている 「安重根」なる 人物について 日本人は ほとんど知らない。 学校では 伊藤博文を 暗殺した 犯人としか 習わない。 この中国での 銅像建設について 書いているのは、 「皇国史観系」のブログである。 その中で、 「安重根」は 火病を 発症する チンピラ テロリストとしてしか 描かれていない。 
                                                              風ノ花 さん 引用
1909年(明治42年)10月26日、ハルピン駅において、当時の枢密院議長で元老、前韓国統監で元首相の伊藤博文が暗殺されました。殺害したのは、大韓義軍参謀中将、韓国独立運動の指導者、敬謙な天主教の信者でもあった安重根(義士)によるものであるのは周知の事実です。

日韓において、安重根と伊藤博文に対する評価は正反対です。日本においては、伊藤博文は日本の立憲政治確立の功労者であり、安重根はその伊藤公を暗殺したテロリスト、と言う認識でしょう。

一方、韓国において、伊藤博文は韓国侵略の元凶であり、安重根義士は豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して日本軍を打ち破った李舜臣将軍と並ぶ二大英傑とさえ言われています。歴史認識の難しさを象徴する典型的なケースであり、冷静な目による歴史的事実の究明が必要だろうと思います。

安重根は極めて正義感に富んだ高潔な人物であり、また、韓国のみならず東洋の平和を希求していたとされています。事件後、逮捕されて旅順監獄に収監されましたが、その姿は日本人の検察官や判事、看守にまで深い感銘を与えました。また、多くの人が獄中の安重根に揮毫を依頼し、その数は約200点に及ぶといわれています。
  安重根と千葉十七の供養碑  千葉十七氏の墓の隣にも石碑
        "安重根と千葉十七の供養碑"                 "千葉十七氏の墓の隣にも石碑"    

 そのような日本人の中の1人に、 彼の獄中時の看守であった 千葉十七 がいます。 旅順監獄の看守であった 日本軍憲兵の千葉十七氏は 獄中で安重根の思想 ・ 人格に感服し 師と崇めた。 そして安重根の真摯な姿と 祖国愛に感動し、 精一杯の便宜を図ったとされています。 また、 安重根も その好意に心から感謝したと いわれています。 そして、 死刑の判決を受けた安重根は 処刑の直前、 「為國獻身軍人本分」と 揮毫し、 千葉に与えました。

 なお、安重根義士に感銘を受けた日本人として、当時、 旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も忘れることはできません。

 栗原貞吉は 安重根義士に 煙草などの差し入れをしたり、 平石高等法院長や真鍋裁判長に会って、 助命嘆願をするなどしていました。  また、 処刑の前日、 安重根義士から 故国の礼服である 白絹の韓服 を死に装束にしたい という頼みを受け、 徹夜で 妻子に仕立てさせて差し入れたという エピソードもあります。

 そして、 安重根義士を救えなかったことで、 自分の力不足と 役人の限界を痛感した栗原貞吉は、 職を辞して 故郷の広島に帰り、 医学関係の仕事について、 再び役人の世界に関わることはなかった とされています(1941年没)。

 安重根義士は、 旅順の関東法院で 死刑を宣告され 幾程もなく 同院で執行されましたが、 この主任弁護士であつた 高知弁護士会長元代議士水野吉太郎氏は 生前著者に次の様に語っています。 (南国夜話より) 

 僕は 安重根の事を思うと何時も涙ぐむ、 安重根の弁護をやつた関係で 度々面会し、 明日は死刑を執行されるといふ前日 一時間に亘つて面会した。 訣別の挨拶という訳だつた。

 当時安重根は自分のした事は 人間として当然の事と思つていた。 死を見ること帰すが如き 彼も自分に対し 死刑を宣告したのは 裁判が間違っている との信念から控訴をしていたが、 水野氏は この判決に対しては弁護士としても不服である。 しかし 結果から見て 死刑は免れないと思う。 朝鮮の志士が 死を恐れるため 控訴をしたと思われるのは心外でないか と諭され 即時控訴を取り下げたものである。

 死刑執行の日は 純白な朝鮮服を着し、 看守につれられて 執行場に現われに時は 立ちならぶ執行官も 彼の神々しい姿に頭を垂れすすり泣くものもあつた。 典獄が 何かいうことはないかと訊ねると、 東洋平和のため萬歳を三唱したい と 言ったが これは許されなかつたので 三分間黙祷して 絞首台に登つた。 執行されて二十分ののち 死体を下ろしたが 何の苦しみもなく 全く天国へ行つたようであつた。 水野弁護士は この光景に深く心を痛め 五十年間の弁護士生活中、 この事件以外 一切死刑の弁護は引き受けなかつた。                      (引用終り)

 全体としては、 一方的記述もあるが 少なくとも、単なる 「チンピラ テロリスト」ではなく、 日本人の中にも 当時 その行動に 理解を示した者がいたことは 事実である。 

 日本も 明治維新を成し遂げるまでに 日露国境選定で来訪したロマン・マフェト海軍少尉を 水戸藩士の小林幸八が斬殺した事件を皮切りに 「攘夷」 と称し 外国人要人の 殺傷事件は 24件に及ぶ。 天に変わり 誅伐を加える いわゆる「天誅 (てんちゅう) 」を繰り返し 江戸幕府要人を暗殺した。 「人斬り」の異名を持つ 岡田以蔵 ・ 中村半次郎 ・ 田中新兵衛 ・ 河上彦斎らを 「テロリスト」 と呼ばず、 勤皇の志士と考えていた。

 ロシア皇太子を襲撃した津田三蔵 (明治24年(1891年)5月11日、来日中のロシア帝国皇太子ニコライの通る沿道警備の現場において、ニコライをサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件という)。この事件を少し詳しく紹介しよう。 
                                                           以下 探検コム さん 引用

40両ほどの人力車が一列になり、180mくらいの大行列が大津を目指しました。三井寺、唐崎を観光後、再び大津に戻り、県庁で昼食。その後、焼物「京薩摩」の錦光山を目指していたところ、突然、道路脇で警備していた警官が飛び出してきて、サーベルでロシア皇太子を斬りつけました。

犯人の津田三蔵はすぐに車夫たちに取り押さえられ、皇太子は頭に9cmほどの切り傷を負っただけで助かりましたが、日本政府にとってはまさに驚天動地の大事件となりました。
ロシアのニコライ皇太子と津田三蔵   大津事件(湖南事件)
          "ロシアのニコライ皇太子と津田三蔵"               大津事件

 取り調べでは、津田は明治8年に締結された「樺太・千島交換条約」の不平等を例に挙げ、もともとロシアの横暴さに不満をもっており、さらに来日して最初に天皇に挨拶しない無礼さを批判しました。
 その上で、「今回の来日は日本を占領するための偵察だ」と主張します。この偵察説は、当時、かなり流布しており、マスコミも真剣に取り上げています。実際、津田は、警備中に見た皇太子の随行員2人が車夫にいろいろ指示を出しているのを見て、これは日本の地理を調査しているに違いないと思い込み、実行を決意したと自供しています。

 政府内では、西郷隆盛の弟・西郷従道(内務大臣)が「軍艦が東京に来る」と叫んで、津田三蔵の死刑を主張しました。ほかにも伊藤博文、松方正義(首相)、山田顕義(法務大臣)らほとんどの閣僚が死刑を訴えています。
 なかには後藤象二郎(逓信大臣)や陸奥宗光のように、「津田をとっとと殺しちまえ」という乱暴な政治家もいました。また、青木周蔵(外務大臣)は、もし皇太子に何かあったら極刑にするという密約をロシアと結んでいたとされ、何が何でも死刑にするつもりでした。

 国民が固唾を呑んで事態を見守っていると、15日に大阪毎日新聞が「津田に死刑は適用できない」という記事を書きました。天皇や皇太子に対する危害は、当時の刑法116条で「死刑」となっていましたが、これは外国人に適用できないからです。

 この記事に怒った政府は、翌日すぐさま「外交記事の検閲」法を施行し、大阪毎日新聞を発行停止にしました。 裁判所も、本来、大津地裁で一審から審判するところを、いきなり大津地裁を大審院(現在の最高裁)扱いとし、約2週間後の27日にすばやく判決を下しました。
 判決は死刑ではなく、無期懲役。法治国家である以上、法を曲げるわけにはいかないという判断でした。  (引用終り)

 外国要人を 暗殺しようとした例は 日清戦争の停戦交渉の為に来日した李鴻章を襲撃した小山豊太郎など、 日本にも 例が無いわけではない。 津田三蔵にしても、 小山豊太郎にしても、 一般国民は 当時は テロリストなどとは 思っていない。 英雄扱いされたようなことも あったであろう。 -- 津田三蔵を取り押さえた 車夫は 「ロシアのスパイ」だとして、 村八分にあったようなことからして -- こういうことも 理解したうえで 韓国の安重根の話をすべきだろう。

 伊藤博文を暗殺した 安重根は それほどの英雄であろうか。 これによって 「韓国」が 独立したのならば そうも言えよう。 日本の植民地にならなかったのならば、 そうも言えようが、 歴史は そんなことは 無かったかのように動いている。 韓国が言うように 世界の英雄の一人 というのは、 (日本人の感情としては) 異論がある。

クタビレ爺イの廿世紀裏話 さんは 次のように書いている。

 未完の東洋平和論は唐突に終わっている。生前の安重根は、その構想の一端を漏らしていた。それは旅順を解放して永世中立地帯とする、日清韓三国の平和会議を開催、通貨を統一して政治経済の共同体を作ろうと言う、『東アジア運命共同体構想』である。

 これが彼の言いたかった事であり、最後の一行には『隣邦を迫害する者は、遂に毒夫の患を免れる事は出来ない』と書かれている。戦火の中で人生の大半を送った男であり、韓国の独立に全てを捧げた男でもある。安重根、遂に祖国に帰れなかった男であるが、今韓国では彼の肖像が切手のデザインとなって祖国を見守っている。


 加害者・日本人にとっての過去完了は、被害者・韓国人にとっては、現在進行形なのである。      (引用終り)

 どんなことでもそうだが、 加害者と 被害者では、 そのことへの思いは 全く異なる。 被害者側の 心理負担は 想像より重い。  中国が 今回も 日本に配慮して 「石像の建設許可」をしないでくれれば 一番良いのだが、 今回は わからない。 ひょっとすると 建つ かもしれない。 周恩来との約束を 反故にした 結果は重い。 


 
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