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「天皇直訴」と言えば、 田中正造だが …  政府の目が 民に向かないときの 最終手段か … 山本太郎の 「天皇直訴」のニュースを見て

 全文で わずかこれだけのニュースが ロイターから 発信された。 この件で書こうと 「保存」してみると、 常連 「ニャン子太郎さん」から コメントが届いていた。
                                                        2013年 10月 31日  ロイター
 31日午後2時半ごろ、東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれていた秋の園遊会に出席した参院議員の山本太郎氏が、天皇陛下に直接、手紙のようなものを手渡した。内容は不明。                              (引用終り)

                                                         ニャン子太郎さんからのコメント
記事から離れてしまうかもしれませんが、、、、
山本太郎氏が陛下に手紙を渡し福島原発労働者の窮状を直訴した件で国会や世の中が大騒ぎしているようです。
マスコミも含めて殆どの意見が「非礼」「軽率」「失敬」「思い上がり」「分不相応」等の批判論調です。
山本氏の行動がそれほどまでに批判されるべきことだったのか、私は甚だ疑問です。(勿論、手段・方法は問われることかもしれませんが)
ひょっとして2.26以降に議員や国民が天皇に直訴をしようとした前例があまりない?
現在は政治権力を持たないとはいえ天皇は今でも日本国の国家元首の地位ですよね?形式上内閣総理大臣は天皇が任命しているのだし。                                          -- 以下省略 -- 


              
 明治時代から 日本は一歩も進化していないんだ、などと 考えていた。 天皇直訴など、 渡良瀬川の公害事件での 「田中正造」以来だろう。 江戸時代に 戻ったと言えぬこともない。 それほど、 民意が 「劣化」してしまったのだろう。

 最近の歴史教科書を見ると、 与謝野晶子の反戦詩や 足尾銅山鉱毒に反対した 「田中正造」の 扱いが大きい。 「右翼勢力」のいうような 自虐史観ではなく、 逆に、 その時々に 正しい方向に日本を 導こうとした 一定の勢力があったような印象を受ける。 書くなら書いても良いが、 世論も 指導者層や学者なども まったく相手にしなかったことも しっかり書いておくべきだろう。

 「免罪符」みたいなもので、 「我が日本国民の優秀さ」の一助として 登場している。 山本議員は なんとか 手渡すことはできたが、 田中正造の場合は その前に 官憲に取り押さえられ、 手渡すことすらできなかったので、 未遂で終ってしまった。 さらに、 その行為は 「気が狂っていた」ということで 『無罪放免』になった。

  田中正造 天皇 直訴 -1-
                 幸徳秋水が 書いたという 直訴状              教科書に載る「田中正造の写真」

 足尾鉱毒事件は、 渡良瀬川の洪水で 広範囲に被害をもたらした。  農民達訴えを 国は一切無視した。 時の農商務大臣の陸奥宗光は、 問題になっている足尾鉱山の持ち主、古河市兵衛の後継娘婿として 次男の縁談が決まっていた。 公害の防止に努め農民を保護すべき立場にあった農商務大臣が、公共の利益を守らずに、 我が子可愛いさから 官民癒着の私利私欲に走り 、自己の職責を怠っただけでなく、鉱害の原因究明をする行為さえも妨害しました。 まさに、 現代と瓜二つ、 政治家の子どもの勤務先が 「東電」なんて いっぱいいる。

 当時、 銅は富国強兵策に欠かせぬ 大切な外貨獲得源にもなっていた。 原発売り込みに 「経済活性化」をかける どこかの首相と そっくりである。 陸奥宗光が いかに古河市兵衛の側に立ち 奔走したかは、推して知るべしであろう。(  日清戦争により 銅の需要が高まり、 古河市兵衛は国家功労者として 名誉金牌を授与された。 後に総理となる 原敬は 古河鉱業の副社長に就任した。 )

 田中正造は、明治憲法は、天皇が 「臣民のために作ってくださったのだから、日本臣民は其の所有権を侵さるることなし、と保証されている事は 守られなければならない。」とを訴えた。 今風に言うと、 「右翼の主張」を 逆手にとっての 攻撃だろう。

 田中正造の国会での質疑に 陸奥宗光は全く答弁しようとしなかった。 国会議員の質問に 正当な理由無く答弁しないのは 国会議院法に反している と田中正造が声を荒げても、答弁は一切得られなかったのであった。  政府は 議会解散後に官報に掲載するという形で、 田中正造の「答弁しないのは議会法違反」とする批判を かわそうとした。

 その官報には、被害の存在を認めるが原因は不明である事。古河市兵衛は必要な予防策を講じている事が述べられていた。 被害の存在はあるが、 原因不明。 (因果関係が明らかでない)  必要な対策は 行っている、--- どこかで 聞いた説明ですよね。 ---

  第二回総選挙が行われた。 ただ一人、 この問題を追及する田中正造への選挙妨害は、警察や県が暴漢を雇い正造の選挙事務所の破壊、運動員への襲撃、有権者への脅迫なと 熾烈を極めたが、 政府の擁立した対立候補に辛勝して田中正造は再選された。 -- 山本議員への攻撃も、 私生活まで含めて 相当なものですね。 --

 田中正造の足尾鉱毒の質疑が再開されたが、 前回と同様の方法で翌月になってから、 農商務大臣の名で出された答弁書には、「鉱毒が被害の一原因になっている事は認める。」「鉱山を停止するほどの被害ではない」「損害に対して処分する権限は政府にはない」「鉱業人は目下被害をなくすための準備をしており将来の被害はない」と 書かれてあった。 『安全な原発を 停止するほどの事ではない』 「損害に対して 保障する権限は 政府にはない。」「完全なコントロール下にあり、将来の被害はない。」…… どこかで聞いたせりふですよね。

            伊藤博文の妻
    写真 (左) 伊藤博文の妻     写真 (右) 陸奥宗光の妻   絶世の美人 ( 豆知識 ですぞ --笑--)

 政府は 栃木県知事を動かして、被害農民に わずかな補償金と交換に 示談書を書かせた。 今後は 鉱毒処理機械も導入されて 被害は発生しない、 という説明に 被害農民は、 おかみの仲裁で支払われる保証金を  涙を流して受け取った。 仲裁委員に対して 地元農民は 感謝状さえ贈った。

田中正造は、盛り上がっていた運動の芽を摘もうとする 足尾鉱山と政府の結託した姑息な手段である事を、被害農村を歩いて回り説いた。が、 農民は 田中正造の警告をうるさがり、 国会でも 政府は足尾鉱毒問題で取るべき手段を充分取ったと 評価する空気がみなぎり、 田中正造に同調する議員はいなくなった。 そしてマスコミも関心を示さなくなり、「田中正造を孤立させる」という政府の方策は、充分効果をあげていた。

 明治34年 3月の国会質問で 田中正造は 「崇高な憲法といえど、憲法の番人に徳なければ無価値となる他はない。」と述べた。 「質問にあらず。回答せず。」 … これが政府の最終回答があった。

 どこかの国では、その国の憲法に 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」などと書かれているのに、米、露、中に次ぐ 「世界第4位」の軍事力を持ち、 敵基地の先制攻撃も辞さない、などという 「内閣」を 多数の国民が支持しているそうな。 「憲法の番人の徳」もそうだが、 「国民の徳」に 負うことが大きいのやも知れぬ。

 有毒物質を保管するのに、 「台風対策」で 周囲に 『土嚢』を積んでいるのを 是とする国では、 この公害を非難することはできまいが、 ほとんど たいした対策が採られなかったので、 明治27年夏に、渡良瀬川に小さな洪水が起こった。農民達は、その洪水が、まさか過去最大の鉱毒被害をもたらすとは思ってもいなかった。先の仲裁委員の話を信じた農民は、すでに足尾鉱山では必要な防止策が取られ、もう鉱毒の被害は無くなったと信じ切っていたからである。

 その後の事件を 新聞記事で追ってみると、                       -- サンデー毎日の記 さん 引用
                                          明治 31 ( 1898 年 ) 10 月 31 日、毎日新聞
 栃木県の渡良瀬川附近は去る 7 日の大洪水が今なお減水せず、沿岸村々の民家は床上まで浸水している惨状であり、田圃 ( たんぼ ) には採って食用に当てる作物無く、家にはこれより来年麦作まで支える食物なく、食物が無いだけでなく飲料水さえもことごとく鉱毒混入のため、近くの親戚知り合い等から水を樽詰にて送って貰う状況である。

先頃から東京に留まる 50 名の総代も、担当の大臣に訴える件については極めて困難な状況の為に、家族の飢えの問題どうするか解決するために、止むを得ずひとまず数名の総代を残して地元に帰郷させ、残り 3 名の総代は各自憲政党総務委員を訪問したが、皆大いに同情を寄せられたとのことであった。  -- 大いに同情はしたが、 ソレいじょうはなにもしなかったのであろう。 --


 被害地住民は請願のため、たびたび上京してきたが一向に ラチ があかないため、今度は大挙して上京し請願することにした。 政府では 内務大臣の上申に基づき 、陳情のため数千人も上京というようなことは 「 示威的運動ヲ為スニ外ナラス 」 として、各省 一様に 「 官庁ハ勿論私宅ニ於テモ 一切面会ヲ峻拒 」することを閣議で決定し、また明治 32 年 ( 1899 年 ) 9 月には関係の県知事に対して、内務省警保局長から取締りを指示していた。

 「不屈の田中正造伝」には、次のように書かれている。 
 -- その年の9月にまたもや発生した 洪水と鉱毒による致命的な被害に 怒りを抑えられなくなっていた農民は 一万人にも達していた。 危険だ。 田中正造は、直感した。 素手で立ち向かう農民が何万いようと 権力者に取っては、 目の前のハエを追う程度の感覚しか持っていない事を 田中正造は良く知っていた。 たとえ結果的に勝利しようと、 その代償は、 大きすぎる。 田中正造はひとり、 行進する農民達の前に立ち、 必死に説得した。

  「もし、 私の要求が 政府に通じぬ時は、 みずから先頭に立って 死を決する覚悟であるから、 この場は帰郷してくださらぬか。」 田中正造の言葉を 農民達は信じ 帰郷した。 後に田中正造が、 最も大きな過ちてあったと後悔した 出来事であった。


 特に群馬県知事に対しては、 警察官不足の事態を予想し、 あらかじめ 憲兵隊派遣について憲兵隊司令官とも打合せておくよう指示していた。 ついに明治 33 年 2 月、群馬県 ・ 邑楽郡 ( おうらぐん ) 渡瀬村 ・ 下早川田の 雲竜寺に参集し 大挙上京しようとする被害地住民と、 警備の警官隊とが衝突するという事件が起こった 。この事件で野口春蔵の外 41 名に、兇徒嘯聚 ( きょうとしょうしゅう ) 罪が適用された。  

                                           明治 33 ( 1900 年 ) 2 月 14 日、毎日新聞
  群馬 ・ 栃木両県の 鉱毒被害民数千人 は、 一昨日来その事務所たる群馬県 ・ 邑楽郡 ( おうら ) ・ 渡良瀬村 ・ 下早川田の 雲龍寺に集合し、 昨朝その地を出発し隊伍を組んで 陸路上京の途に就かんとするとの報告が その筋に届いた様子であるが 、群馬 ・栃木 ・ 埼玉の 3 県は、 県内の巡査を挙げてこれを説得し解散するように努め、 東京府下にては板橋・千住の両口に於てこれを防ぐため、 憲兵、巡査の配置に着手した。

 なお昨日上州 ( 群馬県 ) 館林より被害民の発せる電報によれば、 請願人 2万人が上京 とあり、もってその状況容易ならざることを察知すべし。           (引用終り)

 これだけのデモがあり、 それをマスコミが報じたが、 事態は変わらなかった。 治水事業を少しはしたものの、 鉱山そのものの廃止や、 有毒物を流すことを禁止したわけではなかった。 一般人、 都会の人々は その内容すら 本当にわかっていなかった。 マスコミも 現地を取材したことも無かった。 そんな中で こんな出来事があった。 殖産興業、富国強兵 に まっしぐらの日本の中で、 『人間性』を窺える 悲しい事件である。  以下 -- 佐野が生んだ偉人 田中正造 その行動と思想  より 引用--

 古河市兵衛夫人(タメ) 明治?()年-明治34(1901)年11月30日
 明治34年11月、 鉱毒被害民救済の活動を開始した 「鉱毒地救済婦人会」の会合に、 古河市兵衛夫人・タメは、 密かに女中を出席させた。 テレビもラジオも無いこの時代、 新聞の報道だけでは、 夫人は  ちまたの運動の意味が 全く理解できないでいたらしい。 帰ってきた女中からの報告を聞き、 初めて鉱毒被害の実態を知った婦人は、 悲観して、 その夜の 明治34(1901)年11月30日 神田橋から身を投げ入水自殺する

 12月9日 田中正造は 前日に 妻 「カツ」に離縁状を出し、 幸徳秋水の元をたずねた。 憲法は天皇陛下が臣民の幸福の為に作られた物。その憲法を正しく行わない者がいるために、陛下の臣民が苦しんでいる。それをぜひ陛下にお伝えしなければならぬ。正造は そう考えた。そして、 天皇への直訴状を 秋水に依頼した。 秋水は 快く引き受け、 徹夜で 古式にのっとった文章を書き上げた。 それが 最初の写真にある 直訴状である。

 残念ながら この直訴状は、 天皇に届く前に取り押さえられ、 届くことは無かった。 今も同じだろう。 国民に眼が向いていない、 「富国強兵」「殖産興業」ばかりを主張する政府に対する 「歯がゆさ」からの 直訴状であると思うが、 歴史は 悪い意味で 「繰り返される」のではないだろうか。

 その後、渡良瀬川の利根川合流点の手前に巨大な遊水池を作り、渡良瀬川の洪水をすべて流し込む事で、流域住民の被害を根絶させ、しかも鉱山経営は今まで通り続けさせるという、全てを一挙解決させる妙案を鉱毒調査委員会が考案した。 最終的に 当時 最も豊かな村のひとつであった 谷中村 約3000人の住民に対し、政府は 立ち退きを命じ、 土地収用法に基づく用地買収が 明治 39 年 ( 1906 年 ) から着手され、同年 7 月に 谷中村は藤岡町に合併させられて 村は強引に廃村となった。  -- 詳しくは 下のリンク先でお読みください。

   「真の文明は
      山を荒らさず
      川を荒らさず
      村を破らず
      人を殺さざるべし。

      古来の文明を回らす。
      今文明は虚偽虚飾なり、
      私欲なり、
      露骨的強盗なり」

          田中正造日記より 明治45年6月17日 佐野市郷土博物館蔵 下の写真

    田中正造 の 言葉

遊水池計画を有利に進めたい栃木県知事は、この谷中村の被害に、一切の援助を拒んだ。飢えた農民が自滅するのを傍観するという非人間的な態度を取ったのである。明治37年、飢えに苦しむ農民に対し、近隣からの人道的な援助さえ禁止する措置を取った。

 こうやって、 その後も悪戦苦闘が続き、 田中正造は 最後は 支援者も数少なくなり、 決して幸福とはいえない 最期を迎えた。 「天皇直訴」で 私の頭の中を駆け巡ったことだ。 文章として うまくまとまらぬが そこは 長年の読者諸氏のことだ。 勘弁していただこう。 下に 参考にしたブログや論文などをリンクしておく。 中々のものです。 

不屈の田中正造伝

田中正造の関係者

足尾銅山、鉱毒事件
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COMMENT - 1

次郎長ファン  2013, 11. 07 [Thu] 01:10

山本太郎さんはエライ

「天は人の上に人を造らず、人の下にひとを造らず」。

一人の人間が一人の人間に手紙を手渡した、何の問題もない行為。
人がある特定の人間に手紙を手渡す行為が過ちである、などという社会ルール・制度があるとすれば、その制度が間違っているのです。
社会に害する制度があれば、その制度により政治はゆがみ、やがて国民に大きな害をもたらす危険があると言えるでしょう。

田中正造さん、山本太郎さん、、、人災・公害に人生を狂わされた人々に寄り添い闘う、本当に尊敬に値する人。
高濃度放射能地域に苦しむ人々を避難させようともしない、他のすべての国会議員や政党に、山本太郎さんを避難する資格など毛頭存在しないと思います。

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